「天皇訪 韓」、李大 統領が実際に言っていたこと
以下、ニュース記事より転載
出典: news.harikonotora.net/r/24064/ (はじめに http:// つける)
李 明博大 統領 、実は「天皇は韓 国に来て土下座して謝罪せよ」と言っていた
李 明博大 統領「天皇は土下座せよ」
李 明博(イ・ミョ ンバク)大統領が日本軍慰安 婦、歴史教科書歪曲など過去の問題と関連して
連日外交上の慣例を越える強硬発言をしており、その背景に関心が集まっている。
去る10日、大韓民国大統領として初めて独 島(ドクト、日本名:竹島)を訪問した李大統領は、
14日には日王まで取り上げて過去の問題の早急な解決を促した。
李大統領のこのような対日攻勢は現政権だけでなく次期政権にも外交的負担として作用するという指摘が出ている。李大統領はこの日、忠北(チュンブク)清原(チョンウォン)郡、韓 国教員大学を訪問した席で‘独 島訪問’に対する質問が出るとすぐ決心したように直接的に日本を追い詰めた。
李大統領は現場で日王が「ひざまずいて」謝らなければならないという表現を使ったことが分かったが、その後、大統領府が公開した発言録からは抜けていたことが確認された。
15日公開される光 復節祝辞でも李大統領は日本軍慰安 婦など過去の問題についても 過去とは違って具体的に断固たるメッセージを伝える可能性が高いと見られる。
ソース:ソウル新聞(韓 国語) 「日王ひざまずけ」
http://www.seoul.co.kr/news/newsView.php?id=20120815003005
政権をとってからずっと対日外交問題で実用主義路線を追求し、任期末に突然批判的な態度に急変したのはレイムダック(任期末権力漏水現象)に苦しめられる国内政治状況のためという指摘がある。実際、李大統領に対する国政支持度は最近20%以下まで落ちたが、李大統領の独 島訪問は80%以上の国民が賛成するほど支持を受けている。
このため李大統領が過去の問題を前面に押し出しながらレイムダックを突破する手段にしている
という批判が出てくる。ムン・チョンイン延世(ヨンセ)大政治外交学科教授は「李大統領の独 島訪
問に続く対日強硬発言は全く理解できない」としながら「大統領の独 島訪問に対する国民的支持度が84%まで上がった世論調査に鼓舞されて‘日本たたき’をすれば国民支持度が上がると思ったようだ。」と話した。
ムン教授は「全般的な外交の大きな絵を見れば南北関係と韓中関係が悪く、韓 日関係だけでもう
まくやるべきなのに大統領の最近の言動は韓 日間摩擦を深化させ、李政権の今後の外交的布石
に悪影響を及ぼすだろう」と予想した。
ソース:ソウル新聞(韓 国語) 「日王ひざまずいて」直撃弾…‘日たたき’でレイムダック突破歩み
http://www.seoul.co.kr/news/newsView.php?id=20120815003005
【関連記事】
韓 国大統領の天皇謝罪要求、玄葉外相「報道は承知しているが、そういう内容の話は一切聞いていない」
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120814-00001002-yom-pol
日本は、近代、韓国と戦争を行っていない。
戦いを交えた 「交戦国」 ではなく、
時の朝鮮半島の為政者が
「ロシア、中国ではなく、日本と併合することを望んで」、日韓併合が成立し、
第2次世界大戦も 共に敵国と戦った、と言う事実が
頭脳の中から、吹き飛んでいる。
日本国の天皇陛下が、なぜ謝罪しなくてはならないのか
頭の悪い私は、全然理解ができないでいる。
終戦直後日本人を守った台湾人、日本人を襲った朝鮮人
蔡焜燦著『台湾人と日本精神』
2007-07-29 17:48:51
出典: ameblo.jp/campanera/entry-10041466238.html (はじめに http:// つける)
昭和20年8月15日、終戦の詔勅下る。 山奥での作業中に年輩の応召兵が『敗けた!』と隊からの伝令を口にしたまま、呆然と立ちすくんでいた。 我々は何が起こったのかさっぱりつかめない。無理もない、玉音放送があることすら知らされていなかったのである。 ただ中隊長の青ざめた表情は自体の深刻さを物語っていた。しばらくして、敗戦の事実が我々台湾出身生徒にも正式に伝達されたとき、悔しさと無念の気持でいっぱいになり、とめどなく込み上げる涙で頬を濡らしたことはいまでも鮮明に覚えている。無性に悔しかった。それは他の台湾出身生徒も同じ心境だった。 他方、朝鮮出身の生徒達は、その日から食糧倉庫、被服倉庫を集団で強奪するなど、したい放題のありさまで、我々は複雑な心境でただそれを眺めていた。日本人を殴って、『戦勝国になったんだ』と威張りちらす者もいれば、『独立だ!』と気勢を上げる輩もいる。敗戦の報は、それまで一つだった”国民”を三つの国民に分けてしまったのである。
「敗戦の詔勅」が発せられた翌日の8月16日、水平射撃用に改修を終えた対空機関砲で上陸してくる米兵を迎え撃つべく和歌山に移動するとの伝達があり、四 門あった砲の射手の一人を私が務めることになった。だが、このときは正直いって心が揺れた。『また行くのか… 』、祖国のために殉ずる気持ちで出征したの だが、いまとなっては”生”への執着が顔を覗かせる。 この日の夜も朝鮮人生徒達が独立を叫ぶ傍らで、40名の台湾人生徒も小さな単位でひそひそと今後を 話し合う光景が見られた。『俺達はいったいどうなるのか… 』 『我々は“中国”へ帰るみたいだ』 『それなら俺達も一等国の国民じゃないか… 』がっくりと肩を落とした日本人を気遣いながら、そんな会話が小声で交わされるのだった。
そして8月17日の夕方、連合軍の命令で我が隊の武装解除がはじまり、日本人は復員することが決定した。もちろんこれで例の”本土決戦”の計画も自動的に ついえた。しかし残務整理は日本人事務官でこなせるものの、兵隊がいなくなってしまっては武器庫や飛行機などの警備ができない。そこで進駐軍がやって来るまでのおよそ二ヶ月間、学校、練兵場、格納庫、武器庫など、あらゆる軍の施設を我々40名の台湾人生徒が守ることになったのである。『朝鮮人は信用できない。だから君たち台湾人が守ってほしい』そう言い残して去っていった上官の言葉を、これまで経験してきたもろもろに照らし合わせて了解した。
昭和20年10月、奈良教育隊に米軍が進駐してくると、我々もようやく施設警備の任を解かれることになった。
(中略)
昭和20年12月、連合軍の命令で台湾への帰還を命ぜられる。
苦しいこともあったが、離れて久しい故郷台湾の地を踏める。そんな喜びに胸を膨らませ、私は引き揚げ列車に揺られた。新聞は、近衛文麿元首相の自決を報じ、列車の中では戦勝国民となった朝鮮の連中が威張り散らしている。ああ、日本は本当に負けたんだ……目にするそんな光景が私に日本の敗戦を教えていた。私は終戦の日をもって"戦勝国民"になったはずだが、やはり心の底でまだ自分は日本国民だという意識があり、複雑な心境で"敗戦"を思った。少なくとも、私は戦勝国民になったことを手放しで喜ぶことなどできなかったのだ。
心の切り替えができない私は、誰から見ても敗戦で肩を落とした日本人に見えたのだろう。また日本兵の軍服で汽車に乗り込んでいた私は、8月15日をもって急に威張りはじめた連中の嫌がらせを受けた。 座 席の中に置いた新品の飯盒を朝鮮人に盗まれ、それを奪い返そうとすると、『なんだお前、朝鮮人をバカにするな!降りて来い!』と、たちまち数人に取り囲ま れてしまった。多勢に無勢、勝ち目はない。こうなっては『すみません、私の記憶違いでした』と謝り、難を逃れるしか術はなかった。
それから佐世保に到着するまでの30時間、連中は執拗に私を含め多くの日本人乗客をいびり続けた。若い女性がトイレに行こうとすると通路を塞ぎ、次の駅で窓から降りるよう指示するなど、この連中のあまりにも情けない行状を、私ははらわたが煮え繰り返る思いで眺めていた。ただ黙って見ているしかなかったのである。
日本にとっての 「真の終戦」 は、
日本国と、日本国民が
「自国の歴史について 『確固とした、ゆるぎない理解と誇り』
をもったとき」 にはじめて訪れるのだと思う。
時代が過ぎれば、
「各々の国で、都合のよい歴史観が必要になることもあろう」。
それに翻弄し続けている間は
日本は、戦争を真に正しく振り返ることは
できないのではないかと思う。
日本に必要なのは
「長い年月をかけて迎える終戦」 である。
success
「長い年月をかけて迎える終戦」 である。
success