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[転載]国是を示し経綸を為した明治維新

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五箇条の御誓文 (国立公文書館)


今や我国の政治は「政治ごっこ」の様相を呈しています。
国民不在の政局に明け暮れ、祭政一致とは程遠いお粗末な政党政治に成り下がっています。明治人は気骨があり、政治家も国民も素晴らしかった・・・・

 
国是(こくぜ)とは、その国の大部分の政策の方向性を決定付ける、国民の支持を得た方針のことであり、基本的には長期的に維持されます。国是を知ればその国の性格がある程度知ることができると言われています。
建国後そのまま国是としているケースも多く、その国の歴史と密接に絡んでいるのが常であるため、その国の国是を理解するには、その国の歴史を学ぶ必要があるります。

経綸(けいりん)とは、国家の秩序をととのえ治めることをいいます。
近代日本が国是を示し経綸を為したのは明治維新です。
 
 
 

イメージ 1
                     明治天皇陛下  御真影


慶応4年 (明治元年) 3月14日(1868年4月6日)、明治天皇陛下は、「五箇条の御誓文」を発表あそばされた。政治の御一新に当たり、明治天皇陛下が国家の大方針を示されたのです。
御誓文は、次のようなものです。


一、広く会議を興し、万機公論に決すべし。
一、上下(しょうか)心を一にして、盛んに経綸を行ふべし。
一、官武一途(いっと)庶民に至るまで、各々其の志を遂げ、人心をして倦(う)まざらしめむことを要す。
一、旧来の陋習を破り、天地の公道にくべし。
一、智識を世界に求め、大いに皇基を振起すべし。
 我国未曾有の変革を為(なさ)んとし、朕躬(み)を以て衆にじ、天地神明に誓、大(おおい)に斯(この)国是を定め、万民保全の道を立(たて)んとす。衆亦此(この)旨趣(ししゅ)に基き協心努力せよ。

 次に、現代語訳を示します。
一、会議を開き、多くの人の意見を聞いて政策を決める。
一、身分の上下に関係なく、心を合わせて、政策を行おう。
一、公家、武士や庶民の区別なく、国民の志がかなえられ、失望のない社会にしよう。
一、これまでの慣習をやめ、国際社会の習慣に従おう。
一、新しい知識を世界の各国に求め、国家を繁栄させよう。
 わが国は、未曾有の大改革を行うので、私はみずから先頭に立ち、天地神明に誓い、重大なる決意を持って、国家の大方針を決め、国家・国民の安定を図る道を確立するつもりである。国民の皆さんにもこの趣旨に基づいて、心を合わせて、努力をお願いしたい。


「私」とは、明治天皇陛下です天皇陛下が天地神明に誓って、国是すなわち国家の大方針を決められ、これを国民に発表され、国民に心を合わせて努力してほしいと呼びかけられたのです。

徳川幕府より朝廷に大政奉還があり、、王政復古がなされたとき、明治天皇陛下を中心とする新政府は、新しい日本の方針を国民に示す必要がありました。その方針案を起草したのが、当時、新政府参与という役職にあった由利公正翁です。


由利公正翁 像


由利公正翁は、本ブログの拙稿、「大義を世界に」でご紹介した横井小楠翁の弟子であり、坂本龍馬とも親交がありました。
由利翁の方針案には、自ずと小楠や龍馬の思想が現れていると考えられます。
由利公正翁の師・横井小楠翁は文久2年、松平春嶽公が政事総裁職に就くと、春嶽に従って幕政に参加、小楠翁は、幕政改革の方針を「国是七条」として建議しました。次の七条です。
一、大将軍上洛して列世の無礼を謝せ。
一、諸侯の参勤を止めて述職となせ。
一、諸侯の室家を帰せ。
一、外様・譜代にかぎらず賢をえらび政官となせ。
一、大いに言路をひらき天下とともに公共の政をなせ。
一、海軍おこし兵威強くせよ。
一、相対交易をやめ官交易となせ。


七条の中で「大いに言路をひらき天下とともに公共の政をなせ」という条文は、「御誓文」の骨子の一つとなり、御誓文の「智識を世界に求め」は、小楠翁が『国是三論』で説いた「智識を世界万国に取て」から採られたものとみられています。小楠翁はまた同書に「一国上の経綸」という章を設け、経済について論じました。その影響を受けた由利公正翁が、御誓文の草案に「経綸」の語を用い、御誓文の「盛んに経綸を行ふべし」に結実しました。


坂本龍馬 像



文久3年4月、坂本龍馬は、勝海舟の使いで福井藩の松平春嶽公を訪れました。目的は海軍の軍資金の調達が主でいたが、、龍馬は、「海軍おこし兵威強くせよ」と説く小楠翁の助力を受けて、多額の軍資金を得ることができたのです。この時、龍馬は小楠翁宅に訪ねました。小楠翁は龍馬を連れ、弟子である由利公正翁の家を訪れました。三人は国を憂い、語りあったと言われています。その席で、龍馬が詠んだと伝えられるのが、次の歌です。
君がため捨つる命は惜しまね 心にかかる国の行く末

君とは、君主のことであり、当時の尊皇の志士においては孝明天皇を意味します。龍馬の尊皇と愛国の思いが表れた歌です。
現世の人々は、維新の志士を革命家と評する人がいますが、篤き尊皇の志をもった日本人だったのです。
龍馬は、慶応3年6月9日、薩長による討幕を推し進め、天皇陛下を中心とする新国家を創ろうと奔走しました。そして、長崎より京都へ向かう船中で、新しい国の体制案を記したのが「船中八策」です。
最近、大阪維新の会の「船中八策」が話題になっていますが、国是(こくぜ)と呼べるものではありません。
龍馬の
「船中八策」とは、

一、天下の政権を朝廷に奉還せしめ、政令よろしく朝廷より出ずべきこと。
一、上下議政局を設け、議員を置き、万機を参賛せしめ、万機よろしく公論に決すべき事。
一、有材の公卿・諸侯および天下の人材を顧問に備え、官爵を賜、よろしく従来有名無実の官を除くべき事。
一、外国の交際広く公議をとり、新たに至当の規約を立つべき事。
一、古来の律令を折衷し、新たに無窮の大典を選定すべき事。
一、海軍よろしく拡張すべき事。
一、御親兵を置き帝都を守衛しむべき事。
一、金銀物価よろしく外国と平均の法を設くべき事。


天下の政権を朝廷に奉還せしめ、政令よろしく朝廷より出ずべきこと」とは、大政奉還であり、第二の後半に「万機よろしく公論に決すべき事」とあります。この主旨は、由利の御誓文草案の「万機公論に決し私に論ずるなかれ」を通じて、成文の「万機公論に決すべし」に生かされています。
 龍馬は、「船中八策」を書いた年の11月1日、由利公正翁を新政府の財政担当として招くため、福井藩を再訪し、由利翁の財政論を聴いた龍馬は、改めて由利の新政府での必要性に確信を深めましたが、その2週間後、11月15日、龍馬は明治日本を目前にして、京都・近江屋で暗殺されてしまいます。

また
新政府に出仕した由利翁の師である、横井小楠翁もまた、暗殺されてしまいました。日本は新たな出発において、実に貴重な人材を失ないました。
残された由利翁は二人の遺志を継ぎ、新政府の財政的窮状を打開すべく、太政官札の発行を説きました。太政官札は、日本で初めての政府紙幣です。当時欧米にも例のない不換紙幣でした。新政府内では異論反論が起こりましたが、由利翁の政策を最も良く理解する岩倉具視が、採用を進めました。この時、由利は太政官札を通用させるには新政府の信用が必要であることを力説しました。そのためには新政府の方針を広く世間に示すことだと主張し、自ら草案を書いたのです。慶応4年1月でした。

一、庶民志を遂げ人心をして倦まさらしむるを欲す。
一、士民心を一つに盛んに経綸を行ふを要す。
一、知識を世界に求め広く皇基を振起すへし。
一、貢士期限を以って賢才に譲るべし。
一、万機公論に決し私に論ずるなかれ。



「庶民志を遂げ人心をして倦まさらしむるを欲す」は、御誓文の「官武一途庶民に至るまで、各々其の志を遂げ、人心をして倦まざらしめむことを要す」に結実し、第二の「士民心を一つに盛んに経綸を行ふを要す」は、御誓文の「上下心を一にして、盛んに経綸を行ふべし」に結実し、第三の「知識を世界に求め広く皇基を振起すへし」は、御誓文の「智識を世界に求め、大いに皇基を振起すべし」に結実し、第四の「万機公論に決し私に論ずるなかれ」は、御誓文の「広く会議を興し、万機公論に決すべし」に結実したのです。
 由利案の「
経綸」は小楠翁の「一国上の経綸」から来ており、「智識を世界に求め」は、小楠翁の「智識を世界万国に取て」に由来し、「万機公論」は、小楠の「大いに言路をひらき天下とともに公共の政をなせ」に発し、龍馬の「万機よろしく公論に決すべき事」によります。

由利翁は「議事之体大意」を、東久世通禧を通じて議定副総裁の岩倉具視に提出しました。
由利案に対し、福岡孝弟が冒頭に「列侯会議を興し」の字句を入れるなどの修正を加え、表題を「会盟に改めて、天皇と諸侯が共に会盟を約する形を提案しました。これに対し、総裁局顧問の木戸孝允は、天皇が天神地祇(てんしんちぎ)を祀り、神前で公卿・諸侯を率いて、共に誓い、また全員が署名する形式を提案し、これが採用されました。木戸はまた福岡案の「列侯会議を興し」を「広ク会議ヲ興シ」に改め、五箇条の順序を入れ替えるなどし、さらに、議定副総裁三条実美は、表題を「誓」に修正しました。こうして、「五箇条の御誓文」が完成されたのです。

箇条の文言に続いて、明治天皇陛下が「我国未曾有の変革を為とし、朕躬を以て衆にじ」云々と述べておられます。
明治天皇陛下はまた御誓文と同日、御宸翰(ごしんかん)を出されました。宸翰とは天皇直筆の文書を言います。そこには次のような意味のことが記されています。
 「今回の御一新にあたり、国民の中で一人でもその所を得ない者がいれば、それはすべて私の責任であるから、今日からは自らが身を挺し、心志を苦しめ、困難の真っ先に立ち、歴代の天皇の事績を踏まえて治績に勤めてこそ、はじめて天職を奉じて億兆の君である地位にそむかない、そのように行う」
 すべての人が「所を得る」ような状態をめざし、全責任を担う。明治天皇陛下の決意は、崇高です。ここには天皇が国民を「おおみたから」と呼んで、肇国以来大切にしてきたわが国の伝統が生きており、御誓文と御宸翰に示されたもの、それが近代日本のデモクラシーとナショナリズムの始まりでもありました。
新政府は、五箇条の御誓文の国是の下に、封建制度を改め、その一環として封建領主が所有する領民と領地を天皇陛下に返す改革が行われました。まず版籍奉還が行われ、続いて廃藩置県が断行されました。ほとんど無血・流血のない改革が、わずか一日で実現しました。これらは世界に類をみないものでした。明治新政府の課題は、一日も早く近代国家を建設にして、欧米列強に支配されないようにすることでした。それを成し遂げる資金を調達するには、各藩の徴税権を中央政府に集約するしかならず、廃藩置県によって、近代的な租税制度が確立されたのです。

大胆な政策は、政府が国民の信用を確保し得てこそ、実行が可能となります。国民の信用を得るには、政府が国民に大方針を示す必要があります。国家の根本理念や目標像、それを実現するための計画を明確に打ち出し、国民の精神を統合することなくして、こうした大胆な政策は断行できなかったといえます。

「五箇条の御誓文」は、直接的には由利・福岡・木戸らが作成に関与し、そこに小楠・龍馬の思想が反映されています、しかし、先人の心には、長い歴史の中で受け継がれてきた日本人の精神があり、肇国以来国民統合のシンボルでもある天皇陛下への尊皇の志があります。その伝統的な精神を、明治維新の際の先例を通じて学び、今日の日本において復興させること。それが、日本の危機を打開することにつながると私は思うのでが、どうも現世の政治には根本となるものが欠けています。

国是を示し経綸を為すこと・・

「国思う心と、尊皇の心」が・・・・

転載元: 美しい国


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