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良識ある日本国民の皆様には、韓国の学者が対馬の島主の姓が宗氏ではなく韓国人の宋氏だとする文献を発見したのはご存知だと考えます。
対馬の島主 宗氏ではなく韓国人の宋氏=韓国学者
【釜山聯合ニュース】対馬(長崎県対馬市)の旧島主の姓が宗氏ではなく、韓国人の宋氏だとする文献が見つかり大きな関心を集めている。http://japanese.joins.com/article/061/153061.html
対馬関連の言語学者として知られる黄白(ファン・ベクヒョン)博士はこのほど、対馬の初代島主とされてきた鎌倉時代の武将、宗重尚に対する観光案内板の内容が変更されたことを不思議に思い、文献を調べてみたところ、元々は朝鮮半島出身の宋氏だったことを発見した。
黄博士によると、18世紀に書かれた「東萊府誌」の中で対馬は「鶏林(新羅)に属しており、いつ倭人に占拠されたか分からない。(中略)島主宗氏の元々の先祖は宋氏で対馬に渡って姓を替え、代々、島主を務めてきた」などと記録されているという。
黄博士はまた、宗氏の先祖が現在の釜山出身だったとの記述があることを根拠に「対馬の島主は日本の宗氏でなく、韓国の宋氏。初代対馬島主の墓も対馬ではなく釜山にあることが分かった」と主張する。
実際、対馬の厳原地域にある展望台には、対馬の初代島主が宗重尚ではなかったことが明らかになったという内容の新しい案内板が昨年に設置されている。
旧案内板では「阿比留氏を討伐し、初代島主の地位に就いた」と書かれていた。現在の案内板では、1246年に阿比留氏を討伐し対馬の島主になったという歴史が長い間伝えられてきたが、事実ではないことが研究で判明したとの内容に変わっている。
宗重尚の墓が対馬にないことについて、黄博士は当時の風俗に従って遺体を故郷の釜山に移送したためだとみている。
中央日報
>対馬の初代島主とされてきた鎌倉時代の武将、宗重尚に対する観光案内板の内容が変更されたことを不思議に思い、文献を調べてみたところ、元々は朝鮮半島出身の宋氏だったことを発見
観光案内板とは^^
韓国人は、1000年以上も前から「対馬」は韓国領だと主張していたのですから、韓国の学者のレベルの低さがわかります。
宗重尚は、島津氏と同じ惟宗氏(これむねうじ)の子孫で、渡来系日本人とされていますが、朝鮮とは関係がありません。
平安時代,明法道(律令学)を家業とし,著名な明法家が輩出した氏族。もと秦公(はたのきみ)姓で,讃岐国香川郡を本貫地とし,秦始皇帝12世の孫功満王の子融通王の苗裔と称する渡来系氏族。9世紀なかばに平安京に貫を移し,883年(元慶7),同族の秦宿禰,秦忌寸とともに惟宗朝臣となる。
宗重尚の観光案内板が、どのような内容に変更されたのかはわかりません。
対馬観光物産協会のサイトを読むと、宗重尚の実在に懐疑があると変更をしたようです。
阿比留氏と宗氏 ~中世対馬の有力者~
伝説では、大宰府の命を受けた惟宗重尚(これむねしげひさ)以下200騎 が厳原町 豆酘(つつ)に上陸し、阿比留氏と死闘を繰り広げ、 美津島町 鶏知(けち)で阿比留平太郎国時を討ち取り、 上対馬町 舟志(しゅうし)で阿比留禅佑坊を敗死させ、対馬の支配者となった、とされています。惟宗重尚は伝説上の人物であり、その武勇伝も後の世に生み出されたもののようですが、宗氏による阿比留氏追討の伝説は対馬では長く信じられてきました。
宗氏は平氏の血をひくと自称しており、また、源平合戦で壇ノ浦に沈んだ安徳帝の子孫であるとも称し、 厳原町 久根田舎には安徳天皇の参考陵墓があります。宗姓を名乗ることができたのは島主・藩主だけであったため、現在島内に宗姓の人はいません。ちなみに阿比留氏は、上総国安蒜(あびる)庄の出身であるとか、蘇我氏の末裔であると称しており、対馬で最も多い姓となりました。
>18世紀に書かれた「東萊府誌」の中で対馬は「鶏林(新羅)に属しており、いつ倭人に占拠されたか分からない。(中略)島主宗氏の元々の先祖は宋氏で対馬に渡って姓を替え、代々、島主を務めてきた」などと記録されているという
18世紀^^
日本は江戸時代の中期から後期です。
「東萊府誌」とは、日朝関係で朝鮮側の外交窓口の機関だった、「東萊府(とうらいふ)」で書かれたものだと考えられます。
また、本ブログで記事にしましたが、韓国は竹島の資料がないので、何の役にもたたない江戸時代に書かれた「高札」まで、日本のオークションで購入しました。
仮に、韓国の学者の主張を認めたとしても、韓国に「対馬」の領有権が認められることにはなりません。
>「対馬の島主は日本の宗氏でなく、韓国の宋氏。初代対馬島主の墓も対馬ではなく釜山にあることが分かった」
釜山にある^^
韓国人なら、偽の墓まで建立しそうです。
宗家初代当主の宗重尚の墓は対馬市の「木武古婆神社」にありますし、宗家第二代当主・第五代・第十五代・第十六代の墓所も対馬です。
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宗重尚の墓
宗重尚の墓(木武古婆神社)長崎県対馬市 厳原町 内山551 宗家初代当主
宗助(資)国の首塚 長崎県対馬市 宗家第二代当主
宗助(資)国の胴塚 長崎県対馬市 宗家第二代当主
宗助(資)国の手足塚 長崎県対馬市 宗家第二代当主
宗経茂の墓 長崎県対馬市 美津島町 小船越382 宗家第五代当主
宗晴康の墓(西福寺)長崎県対馬市 上対馬町 西泊219 宗家第十五代当主
宗義調の墓(太平寺)長崎県対馬市 厳原町 中村621 宗家第十六代当主
>宗重尚の墓が対馬にないことについて、黄博士は当時の風俗に従って遺体を故郷の釜山に移送したためだと
故郷^^
対馬は、日本の島で他国に支配された事実はありません。
建国神話である「古事記」には、最初に生まれた島々の1つとして「津島」と記されていて、また、日本書紀には「対馬洲」・「対馬島」と記されています。
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淡路、四国、隠岐、九州、壱岐、対馬、佐渡、本州の順で国産みがなされた(大八洲)「天瓊を以て滄海を探るの図」小林永濯
3世紀末に編纂された中共の歴史書、「魏志倭人伝」(正式には三国志・魏書・東夷伝・倭人条)には、「倭人帯方東南海の中に有り、山島に依りて国邑をなす」ではじまり、「はじめてひとつの海を渡ること千余里、對馬國に至る」とあります。
朝鮮半島の沖に倭人(日本人)の住む対馬があり、倭(日本)の一国として倭国の北岸の狗邪韓国の次に対馬国として登場します。
対馬国は邪馬台国に属して、他の倭の国にも見られる卑狗(ヒコ)という大官と卑奴母離(ヒナモリ)という副官が置かれ統治していたと記されています。
古墳時代初期に築かれた出居塚古墳(対馬市 美津島町 )は、前方後円墳(大和地方で発達した古墳の形態)です。
出土した有茎柳葉式銅鏃は、古式畿内型古墳の典型的出土品で、この時代、すでに対馬は大和朝廷の強い影響下にあったことを示しています。
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出居塚古墳
古墳時代は、大和朝廷が度々朝鮮半島に出兵して交戦を繰り返した時代です。
これらの史実の状況は、日本書紀・広開土王碑文・宋書倭国伝・三国史記の記載により知ることができます。
1274年文永の役、1281年弘安の役と2度に渡る元(モンゴル帝国)とその属国高麗による日本への侵略(元寇)を受けました。
対馬はその最初の攻撃目標となって、守護代の宗助国以下80騎の守備兵が全滅しました。
対馬侵略という元寇が残虐だったことは、「日蓮聖人註画讃」に、「上陸した蒙古・高麗軍は、男を殺戮あるいは捕らえ、女は一ヶ所に集め、手に穴を開け、紐で連結し、船に結わえ付た」と記されています。
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「蒙古襲来絵詞」より「文永の役」
1145年、高麗王の時期に出来た朝鮮半島に現存する最古の歴史書「三国史記(さんごくしき)」には、「王、倭人が対馬島に営を置き、貯うるに兵革資粮を以て我を襲わんことを謀ると聞き、我はその未だ発せざるに先んじて、精兵を揀び兵儲を撃破せんと欲す」とあります。
倭人、つまりは、日本人の対馬島と読めます。
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三国史記
李氏朝鮮領議政(宰相)「申叔舟」(しんしゅくしょう)が、1471年に編纂した「海東諸国紀」は、「日本国対馬島の図」を掲載しています。
本文で対馬島を、「日本国西海道に属す」として対馬島内の事情を詳述しています。
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日本国対馬島の図
豊臣秀吉の九州征伐に際しては、対馬の守護である宗氏は豊臣秀吉への臣従を決定し本領を安堵され、1590年、従四位下侍従・対馬守に任ぜられて、以後その官位が宗氏の慣例となりました。
関ヶ原の戦いでは、宗氏は西軍に加わり伏見城攻撃・関ヶ原本戦に参加し、西軍敗北後は徳川家康から許されています。
以後は代々、徳川氏に臣属して、李氏朝鮮に対する外交窓口としての役割を担いました。
江戸時代は、宗氏が対馬府中藩(通称対馬藩)10万石として引き続き対馬を任せられました。
参勤交代制度に基づき、3年に一度江戸の征夷大将軍の元に出仕することとされ、江戸に藩邸を構えて大名行列を仕立てて行き来しました。
外交面では鎖国体制の中、朝鮮通信使を迎える等の日朝外交の仲介者としての役割を果たして、また、日朝の中央権力から釜山で倭館貿易を許されていました。
江戸時代後期の1861年には、ロシアの軍艦が浅茅湾に投錨し、対抗したイギリス軍艦も測量を名目に同じく吹崎沖に停泊して、一時占拠する事件が起こりました。
5月に外国奉行の小栗忠順が派遣され、7月にイギリス公使オールコックがロシア軍艦を退去させた、「対馬事件」がありました。
東郷平八郎が率いる帝国海軍の連合艦隊と、ロジェストヴェンスキーが指揮を執るロシアのバルチック艦隊の日本海海戦は、海外では「battle of tsushima」として知られています。
直訳すると、「対馬の戦い(海戦)」となります。
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大日本帝国陸軍は、1878年に熊本鎮台から対馬分遣隊を対馬に派遣して、1886年12月3日に「対馬警備隊」が置かれました。
これまで韓国は、竹島だけではなく対馬の領有権まで主張して、対馬の土地を買い漁って、マナーの悪い韓国客も押し寄せています。
そして、次から次へと嘘を重ねては、対馬を奪おうと狙っています。
国境の島「対馬」には、危機を抱く人々がいる一方には、経済的に韓国人を受け入れる人もいます。
対馬には防人の新法を制定して、国境の島を守るべきです。
韓国の学者が、対馬の島主の姓が宗氏ではなく韓国人の宋氏だと主張していますが、宗重尚は島津氏と同じ惟宗氏の子孫の日本人です。
良識ある日本国民の皆様、対馬についてご考慮下さい。
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