(写真は最高裁判所法廷)
御来訪感謝申し上げます。
昨日の記事で、ブログ盟友であり、実際にも同志として親交を深めさせて頂いている「雨やどり」主宰の正念場さんは、現在、今年の5月21日からスタートする「裁判員制度」に対し、この制度そのものが導入される背景や導入されることによる様々な問題点、さらには過去の裁判のあり方等も含めて深慮しておられます。
また、その中で「冤罪事件」が起きてしまう根本原因まで追究して「罪と罰」ではありませんが、人間の深奥に潜む「葛藤=生と死」のメカニズムを究明しようと努力されています。
また、その中で「冤罪事件」が起きてしまう根本原因まで追究して「罪と罰」ではありませんが、人間の深奥に潜む「葛藤=生と死」のメカニズムを究明しようと努力されています。
私は、裁判員制度についても、無知無学、浅学菲才の輩に過ぎない身でありますので、自分が日頃素朴に感じていた事を題材に記事を書きたいと思っていたら、一昨日19日(木)の読売新聞の名物コラム『編集手帳』に共感できる記事があったので、まず引用致します。
実社会を知らないエリート達が「市民の社会常識」を身につけないままに職務を遂行する事自体がおぞましいことではありますが、現行体制の中では仕方ないことなのでしょう。
【 編集手帳 】
原作の小説は夢中で読みふけったのに、映画には食指が動かない。 そういう作品がある。
猟奇殺人事件を描いたT・ハリス「羊たちの沈黙」や、恐竜が人を襲うM・クライト 「ジュラシック・パーク」は見ていない。流血の場面を苦手としている。
◆「いい年をして」「男のくせに」とばかにされても映画ならば見ずに済ます手もあるが、裁判員制度になるとそうもいかない。動悸にあえぐ経験もするだろう
◆東京都江東区のマンション自室で2部屋隣に住む女性を殺害した男に、きのう、東京地裁で無期懲役の判決が言い渡されたが、証拠調べでは遺体断片の写真が大型モニターに映し出されたという。そういう法廷にも裁判員は立ち会うことになる。
◆「市民の社会常識」をプロの裁判官が自前で身につけてくれさえすれば、心臓に悪い市民が味わう必要がないわけで、アマの手を煩わせないと職務が全うできないプロとは何なのさ・・・と、制度の始まる前から愚痴のひとつも言ってみたくなる
◆裁判員に選ばれたらきっと残酷な場面にも耐性ができて、見る映画の間口も広がるだろう。別にうれしくもない。
(太字は、敬天編纂)
原作の小説は夢中で読みふけったのに、映画には食指が動かない。 そういう作品がある。
猟奇殺人事件を描いたT・ハリス「羊たちの沈黙」や、恐竜が人を襲うM・クライト 「ジュラシック・パーク」は見ていない。流血の場面を苦手としている。
◆「いい年をして」「男のくせに」とばかにされても映画ならば見ずに済ます手もあるが、裁判員制度になるとそうもいかない。動悸にあえぐ経験もするだろう
◆東京都江東区のマンション自室で2部屋隣に住む女性を殺害した男に、きのう、東京地裁で無期懲役の判決が言い渡されたが、証拠調べでは遺体断片の写真が大型モニターに映し出されたという。そういう法廷にも裁判員は立ち会うことになる。
◆「市民の社会常識」をプロの裁判官が自前で身につけてくれさえすれば、心臓に悪い市民が味わう必要がないわけで、アマの手を煩わせないと職務が全うできないプロとは何なのさ・・・と、制度の始まる前から愚痴のひとつも言ってみたくなる
◆裁判員に選ばれたらきっと残酷な場面にも耐性ができて、見る映画の間口も広がるだろう。別にうれしくもない。
(太字は、敬天編纂)
私も、この裁判員制度が始まるきっかけとして諸外国(主に欧米)の先進事例を参考したのと同時に、「社会常識」を弁えない人々が圧倒的に多い法曹界単独での裁判では問題が多すぎるので、「社会常識」を弁えた一般市民の参加による「裁判員制度」が採用されたのだと、テレビ番組で説明を受けたことがあります。
確かに、司法に携わる裁判官、検察官、弁護士などの皆さんは司法試験を合格したエリートではありますが、ほとんど実社会を知らずにそれぞれの職について人生を全うされる方が多いことも事実です。実社会を知らないエリート達が「市民の社会常識」を身につけないままに職務を遂行する事自体がおぞましいことではありますが、現行体制の中では仕方ないことなのでしょう。
しかし、引用にもありますように「アマの手を煩わせないと職務が全うできないプロとは何なのさ・・」であります。 薄給に甘んじている立場であれば許容の余地もありますが、彼らは高給を食む社会のエリートであります。 そんな彼らが、彼らの給与の数分の一しかない収入で苦労しながら質素な生活を余儀なくされている一般市民の「貴重な人生のひととき」の犠牲の上に「裁判員制度」がそもそも成り立つ訳であります。 敬天愛人の独り言としては「甘えるのもいい加減にしろ!!」であります。 彼らは絶大な社会的地位や社会的信用を甘受している社会のエリート層であります。 本来ならば、「一般市民に指導・教示」する立場でもあります。 それがエリートの社会的責任でもあるのです。 しかし、そんな彼らが「実は私達は市民の社会常識も弁えない片輪の人間」に過ぎないのです、と自ら公言しているようなものであることを明確に認識しているのかと、甚だ疑問に思うのであります。 「あまりに無責任であり、お恥ずかしい限りです」とはこの事であります。 以前から思っていましたが、昨今の教師の不祥事なども「社会常識の欠如」が為せる業といえるケースがあまりにも多いようであります。 「市民の社会常識」が欠如しているならば、それを身につける訓練なり、経験をさせた上で職に就かせる制度を検討すれば良いだけの話であります。 私は前々から考えていた事は、教師の場合でも採用試験に受かっただけで大学を卒業してから即教師として採用され、一人前の教師として定年まで職を遂行することに大いに疑問を抱いておりました。 私自身も経験がありますが、大学を卒業したての若者はまだ「ほんの赤ん坊」に過ぎません。 民間企業はその事を心得ていて、「社内教育」という名の研修等により企業の戦力として育成してから実戦現場に出します。 しかし、司法に就く者や教師、公務員も含めて、ほとんど実社会を知らずに、またそういう実社会の現状の教育も受けずに職に就いてしまいます。 彼らが職務上も含めて相手にするのは「実社会に揉まれ、あるいは落ちこぼれた市民や実社会に生きる市民の子供達」であります。 資格を有すれば職に就けるのではなく、一定期間の実社会での経験を経た上で職に就く制度を新たに設ける必要性があるのではないでしょうか? 「人を裁く」にしても「人を教育する」にしても、実社会での様々人々の触れ合いや人生経験によって身につけた「社会常識」に育まれた「人格」が最も必要な要素ではないかと僭越ながら考えるのであります。 未熟な者が「人を裁いたり、人を教育する」ことはできません。 このことは、実は一般市民が一番痛切に解っていることではないでしょうか? 国を背負う立場の重責を担う者たちが未熟では、国を危うくする事にもつながるのは間違いないことでもあります。 私は今回の「裁判員制度」の導入の背後にあるのは、日本人が総じて総ての物事に対する「責任感の欠如」を生み出した戦後教育の負の遺産と考えています。
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