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國神社御親拝(昭和天皇)
平成29年8月、今年もこの時期がやってきた。
「世界の現状と国内の事情とを充分に検討した結果、これ以上戦争を継続することは無理だと考える。陸海軍の将兵にとって武装の解除なり占領ということは誠に堪え難いことで夫等(おのら)の心持ちは私にはよくわかる。
しかし、自分はいかになろうとも、万民の生命を助けたい。この上、戦争を続けては結局、我が方が焦土となり、万民にこれ以上の苦悩を舐めさせることは実に忍び難い」。
これは「玉音放送」の前日の昭和20年8月14日、御前会議で天皇陛下が述べられたお言葉である。
日本国では「十七条の憲法」の第三条に「承詔必謹(しょうしょうひっきん)」とある。この言葉を初めて聞いた方は、日本人として覚えておいてほしい。これは「天皇陛下の御言葉には必ず従う」ということである。
徹底抗戦を求める声もあったが、これにより日本人は忠実に守って「終戦」となった。
陛下は朝香宮、東久邇宮、竹田宮、閑院宮を御召しになり「終戦をつつがなく行うために一番心配なのは現に敵と向かい合っている我が第一線の軍隊が本当にここで矛を収めてくれるということだ。ご苦労だが君達が夫々手分けして第一線に行って自分に代わって自分の心中を第一線の将兵に伝え、終戦を徹底させてほしい」と仰せられた。
竹田宮殿下は満州に赴くため、飛行機で向かうと、途中から4機の「隼」が護衛した。
この時、護衛した4名全員が、若くて非常に優秀な教育飛行隊教官で、生き残った戦闘機操縦者の中では相当な技量を持っていた。
竹田宮殿下が満洲から本国に戻るに当たり、護衛した彼らに厚く礼を述べられ、一人一人と握手を交わし、「今後、いろいろの情勢になろうが、くれぐれも自重して日本の再興に尽くしてほしい」と言われた。
その直後、4人は真新しい下着に着替え、整列して、遠く東の空に向かい宮城遙拝し、「天皇陛下万歳」三唱をした。
そして彼ら4機の「隼」は満州の奉天の飛行場に戻ると、そこはすでにソ連軍に占領されていた。しかし彼らはソ連占領を知っていたから先に「天皇陛下万歳」をしていた。
隼4機は超低空で転回し、ソ連が占領した飛行場のど真ん中で急上昇し、上りつめた4機は編隊を組んだまま真っ逆さまに、その飛行場の中央に突っ込んで自爆した。
この時の四烈士の名は以下の通り。
鎌田正邦大尉(大分県出身陸士55期)
西谷眞六中尉(青森県出身陸士57期)
福田滋中尉(岡山県出身陸士57期)
後藤宰久中尉(熊本県出身陸士57期)
この壮絶な自爆を目の前で見たソ連軍の指揮官達は動揺して固まった。
ソ連の指揮官が「これはどうしたのか?」と近くにいた日本の将校に聞くと「日本では古来、武運拙く負けいくさとなった場合、武士として腹を切る。今のは飛行機乗りによる腹切りの作法である」と言った。
日本軍による米軍への特攻隊のことを聞き及んでいたソ連兵は、目の前で起きた「隼」による”特攻”に肝を潰し、その後の傲岸無礼な態度が一変したという。
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