2009/5/3(日) 午後 9:18最近の記事練習用 Yahoo!ブックマークに登録
御来訪感謝申し上げます。
ゴールデンウィーク真っ最中ですが、こんな時は私が住んでいる地方のほうが、普段よりも県外ナンバーのクルマを多く見かけるなど、賑やかな感じが致します。
さて、本日5月3日は憲法記念日ということで、現行憲法が昭和22年(1947)5月3日に制定されたことで、国民の祝日とされています。
現行憲法への評価は賛否両論、中には完全否定する方もいるほどまちまちであります。
おそらく世界中を見渡しても、これほど自国の憲法への評価が分かれる国はほとんど存在しないのではないかと思います。
自国の憲法への意見・評価が分かれる一番の原因は、憲法制定時まだGHQの占領下にあり、独立主権国家ではなかった状況の中で自国民による自主的な憲法ではなく、アメリカを中心にした戦勝国集団が作成した「与えられた憲法」であったということであります。
当然「与えられた」を「押し付けられた」と言い換えることも出来ますが、この他力による憲法を62年もの間忠実に守って来たのが我が国日本のまごうことなき姿でもあります。
憲法とは、国家及び国民が厳守すべきすべき法体系の集まりでありますから、国家の運営及び国民生活を支配していると言っても過言ではない絶対的な存在でもあります。
民主主義国家としては通常であれば、時と共に時代環境と共に政府と国民が議論をしながら、時代環境に則したものに修正するものなのでありますが、国の死活問題である安全保障に関する規定など公式には議論さえ許されない異常な状況の中で今日を迎えました。
つい最近北朝鮮が人工衛星の実験だという詭弁を駆使して軍事ミサイルの発射を敢行したり、欧米+日本の経済・資本援助で急激に力を付けてきた共産独裁の中国が「恩を仇で返す」ように持てる経済力をふんだんに軍事増強に費やして世界の覇権を握ろうと虎視眈々と国際社会を睨んでいます。
そんな中国の動きを警戒して豪州が9年ぶりに大幅に防衛予算を増やすことを決定したと今日の新聞でも報道されていました。
現行憲法、特に第9条などを不肖敬天愛人なりの独断と偏見での感想を申し上げれば、当時、勝者の論理(自己正当化)による世界で一番の悪者とレッテルを貼られた我が国日本を、現実の国際社会の実態を無視して、実現不可能な「理想的なお題目」で縛り付けることによって、二度と自分達に刃向かうことのないように「国家の去勢」と「国民の洗脳」を目的にした極めて狡猾な憲法であるということであります。
現在の国際状況を鑑みると、むしろ、その憲法策定する中心的役割を果たしたアメリカ自身が今になって「やりすぎた」と後悔しているのではないかと思っています。
決して親米派に属する者ではありませんが、アメリカ自身が用意周到に万事怠り無く完璧とも言える対日戦略の要である現憲法がかえって、日本国内においては左翼勢力、国外に至っては中露や旧宗主国の顔色を窺っているだけの風見鶏に過ぎない南北朝鮮にまで大いに付け入る隙を与えてしまった現状は想定できず、内心悔やんでいるのでは?と想像しています。
何故なら日米安保条約を中心とする「日米同盟」がありますが、これは例えていえば、どちらかにとって敵というべき存在が現れたら、共通の敵として「一身同体となって事に当たろうね!」という関係なのですが、日本は米国に「いざとなったら助けてよね。でも、アタシはアンタには何もしてやれないから自分のことは自分でやってね」という不平等な関係を作り上げる結果となってしまったのであります。
これでは、アメリカ及び米軍の士気が上がるはずはありません。
同盟関係とは、本来「互恵」の精神を基盤とするものですが、一方的な「義務」を負わされるだけの隷属関係に近いものになっているのであります。
しかし、敵(米国)もさるもので、幸い日本は経済力はありますから、「じゃあ、体で貢献できないのなら、金で貢献しろよ」となり、「思いやり予算」というこれ以上ない胡散臭い名前を冠した国民の血税をボッタクラレているのであります。
美辞麗句を言われた時は気をつけろと言います。
そこにはとんでもない不都合なことが隠れているものです。
「思いやりと真心、口に出したらウソになる」という有名な言葉がありますが、歯も浮くような綺麗な言葉を使わなきゃならないということは、正当な理由もない要求をあたかも正当であるかのように誤魔化すために用いる定番の手法なのであります。
結局、私が何を言いたいかというと、今まで、日本は「イザとなったら日本を本当に守ってくれるか分からない相手」に「守ってくれるだろう」という不確実な幻想の元に精一杯貢いで来たのでありますが、普段、防衛予算にしつこいくらい喰らいついてくる野党諸君が憲法の足枷を嵌めれば嵌めるほど、無駄な金が出て行ってしまうという皮肉な現状であります。
簡単に言えば、何事も自分でやれば安く済みますが、他人や業者に依頼すればそれなりの対価を支払わなくてはならないという当たり前の道理です。
憲法記念日の今日は、過去から現在まで憲法論議さえも許されない風潮の中、単なるイデオロギーだけでなく、そういった「費用対効果」の観点からも「憲法論議」をすることが国民の義務ではないかと提言したいと存じます。
※人気ブログランキングに参加しています。
下記クリックのご協力をお願い申し上げます。
下記クリックのご協力をお願い申し上げます。
憲法記念日の意義←転載元