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[転載]インドの独立に貢献した日本人

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藤原岩市少佐


数年前「日本はいい国」だと述べただけで一部のマスコミから「危険人物」と言われ、集団的自衛権の行使を日本国憲法違反とする政府見解や、村山談話と異なる主張をしたことなどが問題視されたことにより、航空幕僚長の職を田母神 俊雄氏は解かれました。
田母神氏の主張は正論であり、史実に忠実なものでした。
それほど現在の我国は病んでいるのです。

大東亜戦争は国を挙げての戦いでした。
アジアの解放を目指し、アジア民族のために尽くした日本人がいたことを、私たちは記憶にとどめ、忘れてはなりません。
今や世界最大の民主主義国といわれるインド。その国が、長い英国の支配から独立できた陰には、日本人の協力があったと今もインドの人々から感謝されています。しかし、多くの日本人はこのことを知りません。
藤原岩市少佐は、昭和16年9月、日米交渉が難航し、米英との戦争が避けがたい状況に陥った時、特務命令を受けました。命令は、マレー半島の英国軍の中核をなすインド兵に対して、投降工作を行い、インド独立の基盤をつくることでした。
藤原岩市少佐が率いる特務機関は、「F機関(藤原機関)」と呼ばれました。
藤原岩市
少佐はF機関の立場をこう説明しています。
「私達の仕事は、力をもって敵や住民を屈服するのではない。威容をもって敵や住民を威服するものではない。私達は徳義と誠心を唯一の武器として、敵に住民に臨むのである」


その言に誤りはなく、F機関メンバーは一貫してほぼ丸腰で活動を続けていた。


昭和16年12月8日、日本時間午前1時30分。
帝国陸軍第18師団の佗美(たくみ)支隊はマレー半島のコタバルに上陸し、日英の開戦の火蓋が切って落とされました。連合艦隊が真珠湾攻撃に先立つこと1時間50分前の出来事です。


ほぼ同じ時刻、タイ最南部のシンゴラ(現ソンクラ)、パッタニーにも陸軍部隊が上陸。英領マレーを目指して進撃を開始します。

大東亜戦争・対英国戦の始まりでした。

日本軍は破竹の勢いでマレー半島を南下しました。そこに英国軍の一大隊が、退路を断たれ、孤立しているとの情報が入りました。英国人は大隊長だけで、中隊長以下は、すべてインド人でした。
 この時、藤原少佐は一切武器を持たずに、この大隊を訪れました。そして、大隊長と会って全隊を投降させることに成功しました。少佐は、約200名のインド人投降兵の身柄を預かりました。この中に、後にインド国民軍を創設したモハン・シン大尉がいたのでした。
この時、運命の歯車が少しでも狂っていたら、シンガポール攻略もインパール作戦も形を変えていたでしょう。
英国人はインド人を奴隷視・家畜視し、彼らと食事を共にすることなどありませんでした。しかし、藤原少佐は、インド兵たちとともに、インド料理を手づかみで食べました。これには、インド人もビックリ。日本人は、彼らを同じ人間として扱ったのです。彼らの心をつかんだ藤原少佐は、モハン・シン大尉を説得しました。この戦争こそ欧米の支配からアジアが独立する絶好の機会だ、インド人自身によるインド国民軍を創設すべきだ、と。

モハーンシン大尉は感激のあまり椅子から立ち上がりスピーチを始めました。
「戦勝軍の要職にある日本軍参謀が、一昨日投降したばかりの敗戦軍のインド兵捕虜、それも下士官まで加えて、同じ食卓でインド料理の会食をするなどということは、英軍の中では、なにびとも夢想だに出来ないことであった。

藤原少佐の、この敵味方、勝者敗者、民族の相違を越えた、温かい催しこそは、一昨日来われわれに示されつつある友愛の実践と共に、日本のインドに対する誠意の千万言にも優る実証である」と・・・


インド独立の志士スバス・チャンドラ・ボースは、当時、弾圧を逃れてドイツにいました。機を見たボースは18年5月、日本政府からインド独立への支援の約束をとりつけ、シンガポールに入りました。そして、インド国民軍総帥の地位につき、自由インド仮政府を樹立して、英米に宣戦布告を発しました。
 激戦で名高いインパール作戦は、ボースにとって、すべてをかけた戦いでした。「チャロー・デリー!」(征け、デリーへ)が合い言葉でした。北ビルマからインド東部に進攻し、国内の独立活動を活発化させて、英国の支配者を駆逐しようとしました。しかし、結果は大惨敗。死者は3万人にものぼり、インド国民軍も8千人の犠牲者を出しました。彼我数倍の兵力差と雨期にたたられ、物資補給が途絶えたことが、主な敗因でした。しかし、インパール作戦は、これをきっかけに、インド独立の気運が高まった歴史的な戦いだったのです。


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藤原岩市少佐と握手するモハーンシン大尉


昭和20年8月、インパール作戦でマラリアに冒された藤原岩市少佐は、病床で祖国敗戦の報せを聞く。藤原参謀にも過酷な運命が待ち受けていました。
インドの首都デリー軍事法廷に呼び出されました。
出発の前夜、藤原岩市少佐は自決用に隠し持っていた青酸カリを棄てました。ある決意を胸に秘めていたのです。

「わがインド工作は単なる謀略ではない。陛下の大御心に添い、建国の大理想を具現すべく身をもって実践したことを強調しなければならない」と・・

デリー市内のレッド・フォート(旧ムガール王朝の城)に収容された藤原岩市少佐は、裁判で主席弁護士を務めるデサイ博士から、そっと囁かれました。

「インドの独立は程なくまっとうする。そのチャンスを与えてくれたには日本である。独立は30年早まった。
これはビルマなど東南亜諸国共通である。インド国民は、これを深く肝銘している。国民は日本の復興に、あらゆる協力を惜しまないだろう」と・・・

藤原参謀はインドを離れると直ぐに、今度はシンガポールで再び尋問されるが、そこでも罪に問われることはなかった。

戦時下でも武器を持たずに行動していたことが参謀を救ったのだ。

英軍の尋問者は最後に、こう言いました。

「貴官に敬意を表する。自分はマレー、インドに20数年勤務して来た。しかし、現地人に対して貴官のような愛情を持つことが遂に出来なかった…」


そして藤原参謀は、自衛隊創設と同時に入隊し、陸将を務めた後、昭和61年に世を去る。


英国はインド国民軍の約2万名を、反逆罪で軍事裁判にかけようとしました。しかし、ガンジー、ネルーらの国民会議派は、「インド国民軍将兵は、インド独立のために戦った愛国者である」と反発し、反英運動を繰り広げました。英国植民地政府は、第3回法廷でINA全将校の釈放を決定、そして2年間にわたる弾圧をはね返し、インド人は自らの手で独立を勝ち取ったのです。

 戦後インドは、日本に対して大変友好的な態度を取っています。インド政府は戦争賠償の請求を放棄し、また東京裁判ではインド代表パール判事が「日本無罪論」を唱えました。パール判事を日本に送ったネルー首相は、日本が独立を回復すると、日本の国連加入を支援してくれました。
 
インド独立の道を切り開いた藤原少佐らは、「インドの独立は、日本のお陰で30年早まった」と、インドの人々から感謝されています。その感謝は、現在も絶えることがありません。平成10年、インド国民軍(INA)全国委員会は、靖国神社に感謝状を奉納しました。そこには「インド国民は日本帝国陸軍がインドの大義のために払った崇高な犠牲を、永久に忘れません。インドの独立は日本帝国陸軍によってもたらされました。ここに日印両国の絆がいっそう強められることを祈念します」と書かれてあります。
私たちは、誤った戦争であったとはいえ、大東亜戦争において、被抑圧民族のために尽くした日本人がいたことを心に留め、英霊の安らかならんことを祈りたいと思います。

藤原岩市少佐は、自衛隊創設と同時に入隊し、陸将を務めた後、昭和61年に世を去られました。

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厚い友情で結ばれたモハーンシン将軍と藤原岩市少佐は、昭和29年にインドを訪問した時に再会。

 
インドは、世界で最も親日的な国の一つです。それはインド独立のために尽くした日本人がいたからです。インドは、IT革命の先端を行き、21世紀中半には経済力で中国を抜くかもしれないというほどの潜在力を持っています。日本国内では反日的な政策をとる国のことばかり報道し、先達を貶める教育をしています。
しかし、先達が作り上げたアジアにおける日本の功績を日本人は知り、日本を愛し、日本に感謝している国々を大切にし、関係を深めていくことが大切ではないでしょうか?。





転載元: 美しい国


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