戦死した皇族たち
してきた。だが、太平洋戦争中に命を落とした皇族もあったことを忘れては
いけない。戦争という国の大事において皇族は命を落として当然である
というのは明治天皇の思召であり、男子皇族は全員軍人となることが
義務づけられていた。
これが「ノーブレス・オブリージュ」、つまり王族や貴族などの特権階級は普段
好遇されているからこそ、いざ国の大事となれば最も危険な任務に就くべき
だというヨーロッパの発想にほかならない。だが太平洋戦争中皇族は特別
扱いされ、極力危険な任務に就かせないように力が働いていたことも事実で
ある。しかし、その中にあって自ら危険な任務に就くことを求めて軍部と対立
した皇族、そして実際に戦場に命を散らした皇族もいた。
〔殲滅戦を指揮して玉砕した音羽(おとわ)正彦侯爵〕
音羽正彦侯爵は朝香宮鳩彦王の第二王子で、明治天皇の第八皇女である
允子(のぶこ)内親王を母とする。次男であったため昭和11年(1936)に臣籍
降下して、音羽侯爵家を創設していた。音羽侯爵は既に皇族の身分を離れて
いたため、正確には皇族ではなく「元皇族」であるが、皇族として生まれ育った
ことには変わりない。また音羽侯爵は、朝香家の現当主、朝香誠彦の叔父に
当たる。
音羽侯爵は戦前より軍艦「陸奥」に乗り組み、副砲長兼分隊長として活躍し、
音羽侯爵は戦前より軍艦「陸奥」に乗り組み、副砲長兼分隊長として活躍し、
海軍砲術学校高等科学生としてもっぱら砲術の研究に当たり、同校を卒業した
後は第一線に配属されることを希望し、昭和18年(1943)11月にはウェーキ島に
、次いで同年12月にはマーシャル諸島方面部隊参謀に補せられた。そして
翌昭和19年2月6日のクエゼリン島の激戦において自ら陣頭に立ち最後の突撃を
敢行し、ついに壮絶なる戦死を遂げた。戦死後に海軍少佐に昇進。
〔米軍機と交戦して戦傷死を遂げた伏見博英(ふしみひろひで)伯爵)
伏見博英伯爵は伏見宮博恭(ひろやす)王の第四王子として生まれた。母は
最後の将軍徳川慶喜の第九女経子(つねこ)である。昭和11年に海軍少尉に
任官すると同時に臣籍降下して、由緒ある「伏見」の名と伯爵の位を賜わった。
伏見伯爵は、昭和18年8月下旬に、南太平洋方面で飛行機に搭乗して作戦
要務遂行中に、敵機と交戦して重傷を負い、その後8月26日に戦傷死した。
太平洋戦争中に海軍大尉として第三連合通信隊司令部付として蘭印スラバヤ
に赴任したが、搭乗機がインドネシアのセレベス島(スラウェシ島の別称)南部
ボネ湾の上空で米軍機に遭遇、追尾され撃墜された。戦死後に海軍少佐に
昇進。伏見伯爵は、伏見家の現在の当主である伏見博明の叔父に当たる。
昇進。伏見伯爵は、伏見家の現在の当主である伏見博明の叔父に当たる。
〔飛行機事故で戦死した北白川宮永久王
(きたしらかわのみやながひさおう)〕
北白川宮永久王は、北白川宮能久(よしひさ)親王の第三王子である成久王を
父、明治天皇の第七皇女の房子(ふさこ)内親王を母として、明治43年(1910)
2月29日に誕生した。そのとき父の成久王は既に亡く、その第一王子である
永久王は、若くして北白川宮の当主になった。永久王は学習院初等科から
陸軍幼年学校、そして陸軍士官学校へ進学し、父の成久王と同じ近衛野砲
連隊に入って、野砲兵学校、そして陸軍大学へ進学した。昭和15年(1940)
3月9日に中国に派遣されて、駐蒙(ちゅうもう)軍参謀となるが、約半年後に
内蒙古戦線での演習中に飛行機事故に遭った。陸軍大尉だった永久王は
戦死後に陸軍少佐に昇進した。
永久王は軍神とされ、その死を讃える歌が作られた。永久王の第一王子で
ある道久(みちひさ)王は昭和12年(1937)の生まれなので、3歳で北白川
宮家を継ぐ。現在は伊勢神宮の大宮司を務めている。
北白川宮が「悲劇の宮様」といわれるのは、親子三代続けて海外で戦死または
事故死しているからである。永久王の祖父に当たる第二代当主の能久親王
(筆者の高祖父に当たる)は、明治28年(1895)、陸軍中将、近衛師団長として
日清戦争後の台湾平定において戦病死した。また、永久王の父で第三代当主の
成久王は大正12年(1923)4月1日にフランスのパリ郊外で自動車事故によって
薨去となっている。
永久王と竹田宮恒徳王は従兄弟に当たり、父同士が兄弟、母同士が姉妹、
しかも家が隣り合わせであることから、子供のときから仲がよかった。二人は
歳も近く、恒徳王が一歳年長であった。また二人とも兄弟はなく、本当の兄弟
のように育った。永久王が戦死した後、恒徳王は「永久王が生きていたら
(皇族としての役割を)二人で果たせるのに」と述懐している。
この時期の日本人は、多くが肉親を失った。皇族とてその例外ではなかった
のだ。
竹田恒泰著 「皇族たちの真実」より
竹田恒泰著 「皇族たちの真実」より