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Channel: 電脳工廠・兵器(武器,弾薬)庫
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[転載]戦後、犯された日本婦女子は一人胸の奥につらい過去を置き、語ることをしなかった。 なかった韓国人婆さんたちは英雄気取り。従軍慰安婦で「早急に解決せねばならない人道的問題だ」と国を挙げて大嘘つき。

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31日、韓国大統領の李明博は三・一独立運動を記念する式典で、旧日本軍の従軍慰安婦問題について、「早急に解決せねばならない人道的問題だ」と述べ、日本政府に対応を求めました。
 
当時、日本軍には慰安婦はいましたが、“従軍”慰安婦なるものは言葉すらありませんでした。
その慰安婦も9割は日本女性でした。
なかった従軍慰安婦を韓国は国を挙げての連呼であります。
一方、犯された日本女性は事実を伏せ、辛い過去を忘れるように耐え忍んで生きていたのです。
その戦後の強姦の半分以上は朝鮮人によるものでした。(『水子の譜』より)
・・・・
 
イメージ 1終戦後、福岡の博多港は引揚者の港でした(左写真)。
福岡には政府が行っていた引揚援護局とは別に、民間の人たちによる引揚援護活動が行われていました。それは泉靖一氏が中心となった在外同胞援護会救援部でした。その活動は主に一番弱い子供や婦女子の救援に向けられました。病気にかかった引揚げ孤児には治療保育の「聖福寮」、外国兵に犯され、強姦によって身ごもった婦女子たちを秘かに堕胎手術をしたり、性病にかかった婦女子たちを回復まで治療したのが「二日市保養所」でありました。 以下、昭和54年に出版された上坪隆著『水子の譜』より抜粋して掲載いたします。
・・・・・
 
昭和21年春、引揚げにより、毎日埠頭に行って医療救護に没頭していた田中正四さんは救療部医師団の一人として港で働いていた。
そんなある日、船から降りてきた若い女性が「先生!」と言って田中さんのところに駆け寄って来た。顔は汚れ、ボロボロの衣服をまとい、疲れ切った様子でもあり、田中さんはその女性が誰であるのか最初は全くわからなかった。
その女性は、京城女子師範で田中さんが衛生学の講師をしており、目の前のやつれた女性が教え子の一人であることがやっとわかった。
無事の再開を二人で喜び合ったのもつかの間、彼女はただ泣くばかりであった。
「その日の夜だったか、何日か経ってからだったか、夜、聖福寺の事務所に両親が私を訪ねて来て、『実は娘が妊娠しておりまして・・・』と思いつめた表情だった」
話を聞いてみると次のような事情であった。
彼女は京城女子師範を卒業すると朝鮮北部の田舎の小学校に赴任し両親のもとから勤めに通った。敗戦後のある日、その田舎で彼女は暴行を受けた。暴行は一度では済まず、一定の期間を置いて数度に及んだ。暴行の相手も変わった。「兵隊同士が娘の居所について情報を交換し合っていたらしく『移動のたび新しい兵がやって来て・・』と両親は泣いていた。その結果、娘さんは妊娠してしまった・・」
 
イメージ 2旧京城帝大医学部の看護婦で、引揚げ後に救療活動に参加した池上澄江さんは、二日市保養所で看護婦をしていた。
「もともと(この保養所は)病院じゃないから手術室がないので、この風呂場を急ごしらえの手術室に橋爪先生が改造しました」
そして、この風呂場で取上げられた妊娠後半期の赤ちゃんは、しばしば泣き声を上げたという。
生きて生まれたのだ。よわい産声を上げて泣く赤ちゃんを看護婦たちはどうすることも出来ず、風呂場の片隅に置いていたという。泣き声はいつか細くなり、そのうち冷たくなっていった。 「その泣き声は、今も耳にこびりついています」
こうした赤ちゃんの遺体は、この保養所の一角にある桜並木の土手に埋められた。・・・
 
朝鮮のソウルで同じ学校に通っていた親しい友人と池上さんはこの二日保養所の入り口でばったり会った。女学校の同じクラスで席も隣同志だった。
昭和21年夏、その友人は患者としてここに運ばれてきた。髪の毛は短く、やせ果てた顔で目だけが光っていた。かつての丸顔でふっくらとした笑顔はみじんもなく、池上さんは一瞬違う人だと思った。力なくトラックから降りて来て、池上さんの前で、彼女は小さい声で「こんにちは」と言った。
池上さんは「あっ、○○さん、まあ、あなた」と声を出したっきり、何も言えなかった。
その同級生は、涙だけ頬に伝わっていた。
それから二週間、池上さんと彼女は一言も話さなかった。手術の時も立ち会わなかった。
帰る時、「どうもありがとう」「お大事に」と、短い会話を交わしただけだった。
池上さんは桜の木のそばでひとり言を言った。
「久しぶりですし、話し合いたかったんですけど、今話したらいけないとその時思いました。・・・。
もうその時結婚しておられたはずですし・・。この二日保養所に来て治療を受けたことも、またその前にこうむった忌まわしい被害についても、この三十年の間、誰にも語っていないはず・・・」
・・・
 
保養所の責任者であった橋爪将氏はほとんど一人で堕胎手術を行ってきた。
(取材時は広島で産婦人科医院を開業していた)
 
「いろいろな方が見えました。親の見ている前で強姦されたという娘さんを母親が連れて来てましたけど、思い出しては二人で泣いていました。・・」
 
「一見ボーっとして、無気力という言葉が一番ぴったりしますね。感情も全く顔に表しません。印象に残る患者さんと言えば、どの方もそうですけど、大部分がはっきり強姦、ことに銃を突きつけられて輪姦された方が何人かおりました。結局ほとんどの人が妊娠していることがわかってきます。・・。ほとんど小さくても四カ月、場合によっては六カ月以上になります。だから本人もわかってきますし、このままの姿では郷里に帰れない。相当思案した揚句に、二日市に来たっていう人がほとんどでした」
 
「トラックに乗ってくる時は、ほんと男か女かわかりませんでした。『今日はだいぶ男が乗っているなあ、家族連れか』なんて思って見てますとね、それが女性なんです。髪が短くスミでも塗って汚れた服を着ていますと見分けがつきませんでした。すでに暴行を受け妊娠しているのに、それ以上乱暴されたくないという気持ちだったんでしょうね。・・。しかし、あの時のことは正直なところ思い出したくないです」
 
「結局、赤ちゃんの頭が見えてきた時ですね、その頭に特殊なノミのような危機を入れましてね、頭にそれを入れますと、頭が潰れて中の脳が出てきます。何も全部潰してしまわないでも、能を出せば結局出るときに頭が圧迫されて出てきますから、どんどん脳が出てしまって、そうしますと泣きもしません。ウンともスンともいいません。これは大きい子にそれをする場合がありましたけど・・」
この方法は衰弱した母体を保護する目的もあったし、同時に泣き声を打ち消すことにもなった。・・
 
普通ならば退院した人からは世話になった担当の医師によく感謝の礼状が届いたりする。
だが、二日市での診療ではただの一つもそうした例はなかった。
「二日市保養所では私は一通も礼状のようなものは貰わなかった。もちろん私たちはそういうことを望みもしませんでしたけど、今考えてみると、そういうことが一度でもなかったというのは、患者さん自身があの時のことはもう考えるのもいやだと思っているからじゃないでしょうか」
・・・
 
「あの時のことはもう考えるのもいやだ・・」
これこそ本音であったと思います。
だからこそ日本女性は戦後何も言わずにいたのだと思います。
 
 
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それにくらべ、韓国人と言うのは民族性が違うのか、嘘だから平気なのか知らないが、
“従軍”慰安婦ということを堂々と主張して、まるで英雄気取りであります。
昨年12月、ニューヨークの日本国連代表部に、日本軍の慰安婦問題に対する日本政府の公式謝罪を要求する請願書が慰安婦団体から提出されました。
自称・慰安婦生存者のイ・ヨンス、イ・オクソンはこう言いました。
「私はなぜ日本軍慰安婦か?私はイ・ヨンスという人間だ。15才の時、引きずられて行って日本軍慰安婦を強制されて、今まで一人で暮らしてきた」
「日本は一日でもはやく謝罪し賠償しなければならない」
「日王が私の前に来て、跪いて謝罪しなければならない」
このおばあさんらは過去20年間、ソウルの日本大使館前で1000度の水曜集会を行ったそうです。
 
本当に心に傷を受けたなら、こういうことはできないはずです。
 
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転載元: さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」


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