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混迷の時代にこそ聖徳太子に学ぶ(上)より続きます。
混迷の時代にこそ聖徳太子に学ぶ(上)より続きます。
聖徳太子は、天皇陛下を中心として国民が統合された国のあり方を、理想とされました。国民は、豪族の私的な権力の下にあるものではなく、「公民」の立場となり、天皇陛下を主と仰ぎます。一方、天皇陛下は国家公共の統治を体現し、「公民」を「おほみたから」(大御宝)とする伝統が再確認されます。この理念は、大化の改新において実現され、公地公民制が創設され、開花しました。
それは、天皇―公民制というわが国独自の国家原理の樹立だったのです。シナの古代帝国の場合は家産制国家であり、国土・国民はすべて皇帝の私物であり、官僚は皇帝に私的に仕える者でした。今日の教育では、日本もシナに学び、中央集権的な家産制国家をめざしたように見えますが、根本が違います。
シナでは帝国全体が皇帝の「私」のものであるのに対し、日本では国全体が「公」のものである点が違い、わが国では、天皇陛下は公の体現者となり、人民は私的に所有されるのではなく、公民という公的存在になったのです。シナの皇帝が私利私欲で土地や人民を私有したのに対し、天皇陛下は公民を「おおみたから」と呼び、自らの徳を磨かれ、人民のために仁政を行なわれたのです。
聖徳太子の理想、理念は、その後、形を変え、律令制として制度化されました。律令制国家は、「天皇と公民」の関係を、改めて構築するものでした。律令は、実に明治維新まで、千年以上もの間、わが国の基本法であり続けたのです。
官位十二階と十七条憲法によって内政の充実を図った聖徳太子は、外交の面においても、画期的な活躍をされました。
古代の東アジアでは、シナ文明が栄えていました。シナの皇帝は、シナこそが世界の中心国(中国)であり、周辺諸民族は野蛮人だと見下し、軽蔑していました。中華思想であり、これによる国際秩序を華夷(かい)秩序といいます。周辺諸国は、シナに貢ぎ物をして册封(さくほう)にありました。册封とは、シナ王朝の臣下となり、自分に「王」の位を与えてもらうことを意味します。東アジアは、こうした册封体制が支配しており、シナを核とした中心―周縁構造だったのです。
聖徳太子は、大国・隋を相手に気概ある外交を行い、シナ中心の国際秩序から離脱し、日本の独立を守り、独自の文化を築く道を選択されたのです。
聖徳太子は、推古天皇16年に、シナ大陸にできた大帝国・隋の二世皇帝「煬帝」に対して、国書を送ります。遣隋使には小野妹子が遣わされました。国書には「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。つつがなきや」という言葉が記されていました。
「日出づる処」とは我国のことであり、その「天子」とは、日本の天皇陛下のことを意味します。この国書を見た煬帝は「はなはだ喜ばしからず」と伝えられています。「天子」とはシナの皇帝一人とされていたからです。
第2回の国書には、「東の天皇、西の皇帝に曰(もう)す」と記されています。聖徳太子は、もはや紀元1世紀以来使われてきた「王」という称号を用いませんでした。「王」は、シナの「皇帝」に仕える立場だからです。隣国朝鮮王朝は肇国以来、我国が併合するまで「王」だったのです。
「天皇」という言葉がここに初めて使われたのです。「天皇」の称号は皇帝と対等のものでした。これは、隋の煬帝の逆鱗(げきりん)に触れ、武力攻撃を招きかねないことでした。
しかし、聖徳太子は、シナの册封体制から離脱し、対等な国際関係を築こうとしたのです。これは画期的な外交方針の転換でした。大国「隋」をも恐れず、自己を卑下しない気概があったのです。こうした聖徳太子の毅然とした姿勢は、国家外交の基本を示しているものと言えましょう。また、日本が海に囲まれ、大陸からの攻撃が難しいという自然条件に恵まれていたことが、こうした外交政策を可能としたのです。
一昨年、領海を侵した中国漁船らしき船を拿捕、起訴しながら中共の圧力に屈した、民主党政権と太子の外交姿勢は大きく異なります。
太子の意を受けて、大化の改新の後、天武天皇の御代に、「天皇」の称号が定着しました。また、「日出づる処」を意味する「日本」が、国名として用いられるようになりました。今年の大河ドラマ「平清盛」でも、NHKが天皇陛下を「王」としていますが、歴史認識が欠如していることも指摘しておきます。
最初に、公式文書に「日本」という国名が現われたのは、大化の改新の後、大化元年に、百済の使者に与えた詔勅とされています。その後、シナでは、咸亨元年の『新唐書』に、「倭の字を悪(にく)み、更めて日本と号す」と記されています。ここに1世紀以来、「倭」と記されてきたわが国の国号は、「日本」という名称に公式に改められたのです。
大化の改新では、年号も、我が国独自のものを使うことを決めました。それまでは、シナの皇帝が年号を定めると、他の周辺国はそれと同じ年号を使用していました。しかし、我国は、こういう主体性のない状態を、良しとしませんでした。
聖徳太子の国家方針樹立によって、わが国では7世紀の初めに、君主を「天皇」と呼び、中頃には独自の年号を立て、また新たに国名を「日本」と定めたのです。
結果、我が国は政治的・外交的に、シナを中心とした政治秩序である册封体制から離脱し、それによって、独自の文化を発展させ、一個の独立した文明を創造する基礎が固まったのです。
太子は、積極的に外国文化を採り入れました。太子は、繰り返し小野妹子を隋に派遣され、当時の先進国シナに学ぼうとされました。しかし、自主的な姿勢を持ってこれを行うところに、太子の方針がありました。
太子が遣わした遣隋使には、留学生が一緒に大勢送られました。留学生たちは、帰国後、外国文化の知識をもとに、様々な形で、国家のために活躍します。
隋が滅び、唐という国家が興りました。その4年後、推古30年、聖徳太子は49歳の生涯を閉じられました。
大化の改新では、聖徳太子によってシナで学んだ留学生たちが太子の意思を受継いで活躍し、その後の国家建設においても、彼らの知見が大いに生かされました。
聖徳太子による留学生の海外派遣が先例となり、明治維新の時にも、政府使節の海外視察や留学生の派遣が行われ、維新国家の建設に大きな成果を挙げました。大東亜戦争後、有色人種が白色人種の植民地支配から独立すると、先進国に多くの留学生を送り込みました。彼らは帰国後、祖国建設に活躍しました。
これらは、明治以来の日本の方法を模倣したものであり、聖徳太子の政策にならったものともいえます。太子の留学生派遣には、世界史的な意義があったのです。
聖徳太子は、内政においては、天皇中心の国柄を明確され、和の精神による公共秩序をつくられ、神道を根本とした豊かな精神文化を創造し、外交においては、毅然とした独立自尊の外交を行いつつ、積極的に外来文化を摂取しようとしたと言えます。
こうした聖徳太子の姿勢は、明治維新においても貫かれ、21世紀の今日においても日本国の一貫した基本方針たるべきものです。
昨今の混迷した時代だからこそ、聖徳太子にに学び、原点に返り、自主性と創造性のある国家・文明を発展させ、且つ、お国柄を大切にしたいものです。