続き 皇居勤労奉仕発端の物語(昭和44年)
ザックザックと砂をふんで一歩また一歩、現場に近ずかれるお靴の音は、
まさに日本歴史大転換の歯車のきしる音としか思えない。国民と共に語り
、共に苦しみ、共に楽しまんとの御決意は、すでに御即位のときから明瞭
に、われわれお側にお仕えしている者には、拝察できたことだったに狗らず
、いろいろな事情のために、その実現はできなかったが、奇しくも国破れた
今日、陛下は、その機会をつかまれたのだ。
宮殿の焼失などは、いま露ほども惜しいとは思っておいでにならないに
相違ない。ただ、夜となく昼となく、常にお胸のうちを去らないものは、
亜細亜大陸の各地、また太平洋の島々に、とり残こされた末復員の
将兵その他の同胞の安否や、国民各家庭のさまざまな悲惨辛苦の
ことだ。いま数分後には、はるばる仙台の奥から手伝いにきてくれた
青年たちにお会いになれる。こんなことが皇居内で行われることは未だ
嘗て前例のないことだが、少しはお気が晴れることだろう、など。
陛下のお姿を遠くから拝した六十人の人たちは仕事をやめて、あちこちから
集ってきて、陛下をお迎えし、ここに前例のない御対談が始まったのである。
代表者(慶応義塾出身の鈴木徳一君、惜しくも昨年末仙台で病投)が御前に
代表者(慶応義塾出身の鈴木徳一君、惜しくも昨年末仙台で病投)が御前に
出て御挨拶を申し上げたのに対し、陛下は、遠いところから来てくれて、
まことにありがとう。郷里の農作のぐあいは、どんなか、地下足袋は満足に
手に入るか、肥料の配給はどうか、何が一番不自由か、など、御質間は
次から次へと、なかなか尽きない。
かれこれ十分間ほどお話しがあり、何とぞ国家再建のために、たゆまず精を
出して努力して貰いたい。とのお言葉を最後に、一同とお別れになり、また
、もとの路をお帰りになるべく、二、三十歩おあるきになったそのとき、
突如、列中から湧きおこったのが、君が代の合唱であった。当時、占領軍の
取締りがやかましく、殆んど禁句のように思われて誰も口にすることを遠慮していた、その君が代が誰に相談するでもなく、おのずからに皆の胸の中から、
ほとばしり出たのであった。ところが意外にも、この君が代の歌ごえに、
陛下はおん歩みを止めさせられ、じっと、これをきき入っておいでになる。
一同は、君が代の合唱裡に、陛下をお見送り申上げようと思ったので
あろうが、このお姿を拝して、ご歩行をお止めしては相済まぬ、早く
唱い終ってお帰りを願わねば、とあせればあせるほど、その歌声は、
とだえがちとなり、はては嗚咽(おえつ)の声に代ってしまった。見ると、
真黒な手拭を顔に押しあてた面伏(おもぶし)しの姿もある。万感胸に
迫り、悲しくて悲しくて唱えないのだ。私も悲しかった、誰も彼も悲しかった。
しかし、それは、ただの空しい悲しさではない。何かしら云い知れぬ大きな
力のこもった悲しさであった。今から思えば、この大きな力のこもった
この悲しさこそ、日本復興の大原動力となったのではなかろうか。
辛うじて唱い終ったとき、陛下は再び歩を進められてお帰りになったが、
私は暫らく後に居残ったところ、青年たちは私に、皇居の草を一把ずつ
いただいて郷里への土産にしたい、という。何のためかと思って尋ねて
みたら、その答は次の通りであった。
私たちは農民です。草を刈つて、肥料のために堆肥を造ります。
この一把の皇居の草を(といつて、堅く、かたく握りしめ、眼に
涙していう)いただいて、持って帰って、堆肥の素とし、私たちの畑を
皇居と直結したいのです。
この青年たちとの御対談に、陛下は何かよほどお感じになったことが、
おありになったご様子で、お部屋にお帰りになるや、皇后さまに、午後、
作業現場にゆかるるように、おすすめになり、そのときも、私は再びお供を
して現場に参ったが、第二回からは、両陛下お揃いで、奉仕の人々に
お会いになることになり、それが今日まで二十数年間つづいている
のである。
第一回目のとき、皇后さまが陛下に御同行なされなかったのには訳がある
当時、国内の各港には、海外で働いていた同胞の引揚げ船が続々と到着
しっっあったが、殊に南方から帰つてくる人々は、防寒服がなく、みな薄着の
ままで日本の冬に上陸せねばならず、老幼の困難は特に甚だしいものが
あつた。皇后さまは、これを非常にご心配になり、何か暖かい衣をとお考え
になるのだけれども、店は品切れだし、皇居の内も、宮殿は焼失、倉庫も
大部分焼けて材料が乏しい。それでも捜せば、多少の綿や切れ類がある
ので、それをできるだけお集めになり、女官相手に、毛糸でスウエッター、
また綿や切れでチャンチャンコを、できる限り沢山おつくりになるので
お忙がしかったのである。
前例の全くない、皇居内での陛下と地方青年たちとの御対談を、宮内省
詰めの新聞記者諸君が見のがす筈はない。ニュースは、すぐに全国に
伝えられた。三日間の感激の奉仕をおえ、おのおの一把の皇居の草を
抱きしめて郷里にかえる青年たちの汽車の旅は、上京のときとは全く反対で、
まことに朗ちかな希望に満ちたものであったに違いない。無断上京のお詫びを
兼ね、知事さんに挨拶のため、仙台に途中下車、一同県庁を訪れたところ、
折から開会中の県会は青年隊無事帰着の報に接し、にわかに議事を
中止し、知事以下議員総出で一同を喜び迎え、大いにその意気と労とを
ねぎらったとのことである。
以上語りしるす事柄は、国民対皇室、皇室対国民の間に見られる、あらゆる
事象のうちの、単なる一こまとして、風の如く来り、また風の如く空しく過ぎ去っ
たであろうか。疑いもなく、これは名もなき農村青年男女六十人の渺たる
一団である。だが然し、名誉を思わず、利益を求めず、占領軍の弾圧
あらばあれ、ただ一片の衷情やみがたく、やまとごころの一筋に立ち
上った、この一群れの間にひらめく正気の光は、決して空しくは消え
去らなかった。
正気は友を呼ぷ。この報、一たび全国に伝わるや、当時、断腸の思いに
沈んでいた国民の心の琴線は、俄然、高鳴りを始めだしたのである。
栗原郡からは、第二隊、第三隊、第四隊、第五隊と続々上京してくるし、
次ぎには隣りの郡、また、その次ぎには隣りの県、終には北は北海遣、
南は九州のはてに至るまで、全国からの奉仕の願い出は殺到するばか
りで、今日すでにその奉仕の人員は、数十万に達するであろう。
りで、今日すでにその奉仕の人員は、数十万に達するであろう。
官辺より何らの指示勧奨もあるのではない。ただ国民至情の赴くところ
、しかあらしめるのである。
元侍従次長 木下道雄 著 「皇室と国民」より