台湾大虐殺。
戦後の台湾は支那人がなだれ込んできて、汚職、不正が横行し、支那人は台湾人にたいして差別、迫害を徹底して行い、政府の役人、官憲は支那人に占められました。台湾人は「犬(日本人)が去って豚(支那人)が来たり」と言いました。犬はうるさいが守ってくれる。豚は働かずたたむさぼるだけという意味です。
昭和22年(1947年)2月28日。台湾のラジオ放送に突然「守るも攻める黒金のー、浮かべる城ぞ頼みなるー・・・」軍艦マーチが流れはじめます。楊 素秋(よう そしゅう)著「日本人はとても素敵だった」によると楊さんのお父さんはこれを聞いて「おおっ、珍しい、日本のニュースが入ってくる!早く来い!日本の放送が聞こえる」と喜んで皆を呼んだそうです。すると「バンザーイ、バンザーイ」「台湾人よ立ち上がれ!」と日本語の放送が流れました。
この二・二八事件のきっかけは2月27日、支那人(外省人)の密輸タバコ取締官が闇タバコを売っていた台湾人(本省人)の老婆から闇タバコを取り上げただけでなく、所持金まで取り上げ、更に老婆を銃で殴って痛めつけたのです。それを見ていた通行人が集まり始め、中にいた元日本海軍軍人だった台湾人が見るに見かねて支那人の取締官を殴り、取締官は発砲しながら逃げ、その銃弾が民衆に当たり殺傷してしまいました。これで民衆の怒りは一気に爆発し、警察当局を包囲します。この事件の噂は一夜にして台湾全島を駆け巡り、台湾人はついに立ち上がることになります。
翌28日、旧総督府前の広場に詰め掛けた群衆は抗議のシュプレヒコールを上げましたが、これに憲兵隊は機銃掃射を行い、死傷者十数名が出ます。各地で抗議行動が行われ、台湾人はラジオ放送局を占拠。「元○○飛行隊の者は○○へ終結せよ」「元海南島の○○部隊の出身者は○時に台北市の○○へ速やかに集合せよ」と日本語で召集がかかり、「軍艦マーチ」「君が代行進曲」が流されます。民衆の間では「基隆に日本からの援軍が上陸したらしいぞ!」という噂まで流されたといいます。
劣勢となった中華民国の長官府は、一時、台湾人に対して対話の姿勢を示します。事件5日目の3月4日には全省2・28事件処理委員会が設けられ、在台湾行政長官兼警備総司令・陳儀と話し合いがもたれました。しかし、陳儀は台湾人の要求を飲むようにみせかけ裏で大陸の国民党政府の蒋介石に「共産党の反乱」として密かに援軍を要請しました。
蒋介石「皆殺しだ。100人の無辜(むこ 罪の無いこと)を殺しても一人の共匪を逃すな!」
蒋介石は台湾に二個師団を向かわせ、報復攻撃を開始します。支那兵はトラックに機関銃を乱射し、町の大通りを駆け抜け、男も女も老いも若きも台湾人と見るや片っ端から射殺し、民家に押し入り略奪、暴行などの悪事の限りを尽くします。そして医師、弁護士、学者、教師などの知識層は無実のまま次々と逮捕され、裁判もなく虫けらのように処刑されていきました。その数、3万とも5万とも言われていますが、実態は解明されていません。これより40年も台湾人は声を失うことになりました。
参考文献
小学館文庫「台湾人と日本精神(リップンチェンシン)」―日本人よ胸を張りなさい 蔡 焜燦(著)
桜の花出版「日本人はとても素敵だった」楊 素秋(著)
参考サイト
WikiPedia「二・二八事件」
添付画像
二・二八事件紀念碑 Auth: Allen Timothy Chang (CC)