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Channel: 電脳工廠・兵器(武器,弾薬)庫
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[転載]ベルギーと日本-2

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※昨日からの続き


日清戦争を観戦したフランスの国際法学者ポール・フォーシーユは、
次の言葉を残しています。

日本は、単に自国に法制度を施行して
文明国に列しようとしているだけではなく、
国際法上においても、正に文明国であり文明人である事を見事に証明した。
即ち日清戦争において、清軍は明白に国際法を無視したけれど、
日本軍は国際法をどこまでも尊重した。

日本の軍隊は、慈悲をもって捕虜を待遇し、
敵の負傷者を見つけては救護を拒まなかった。
日本は未だ1868年12月11日のセントピータスブルグ宣言
(害敵手段を制限する取り決め)に加盟していないけれど、
相手国兵士に無用の苦痛を与える兵器の使用を避けた。
また、あえて敵対しない住民の生命財産を
保護する事にもすこぶる注意を払った。

日本は、未だどこの国もしなかった事をしてみせた。
その仁政を熱心に行う余り、ついには敵国の住民の租税を免じ、
敵国民から対価を得る事なしに彼らを給養してしまった。

兵士の間ですらも人命を重んじることに極めて厚く、
人々を救済する策を惜しむ事はなかった。
見るがいい!
日本軍の通過する所には、
必ず衛生法を守らせる為の規則が布告されている事を!!

(原文)
日本は独り内部の法制に於いて世界最文明国の班列に達したるに非ず。
国際法の範囲に於いても亦同然たり。
経験は日本政府が能く其の採択する所の文明の原則を
実行するに堪うるを表示せり。
即ち日本は清国に対する一八九四年の戦争に於いてこの事を証明したり。
この戦役に於いて
日本は敵の万国公法を無視せしに拘らず自ら之を尊敬したり。
日本の軍隊は至仁至愛の思想を体し、
常に慈悲を以て捕虜の支那人を待遇し、
敵の病傷者を見ては未だかつて救護を拒まざりき。
日本は尚未だ一八六八年十二月十一日の
セントピータスブルグ宣言に加盟せずと雖も、
無用の苦痛を醸すべき兵器を使用することを避け、
又敢えて敵抗せざる住民の身体財産を保護することに頗る注意を加えたり。
日本はいずれの他の国民も未だかつて為さざる所を為せり。
其の仁愛主義を行うに熱心なる、遂に不幸なる敵地住民の租税を免じ、
無代価にて之を給養するに至れり。
兵馬倉皇の間に於いても人命を重んずること極めて厚く、
凡そ生霊を救助するの策は挙げて行わざるなし。
見るべし日本軍隊の通過する所
必ず衛生法を守らしむるの規則を布きたるを。


日本は軍国主義にひた走ったのではありません。
私達の先人は、「公正」と「人道」と「信義」によって、
日本という国をむしろ世界の中の模範とさえなるよう、
必死の自制と努力をする事で、世界の良心が、
むしろ積極的に日本を認めざるをえないよう、努力を重ねてきたのです。

そしてその結果として、戦うべき時には戦わざるを得なかったし
(それをしなければ、ただの無能な馬鹿とみなされた)、
その為の軍備を整えた。
歴史解釈が逆なのです。

「笑いの石垣」という有名な小話があります。
概略、次のようなお話です。

熊野には、石垣が沢山ありました。
あるとき八幡社の裏手に、石垣を積もうという話になりました。
高さ10メートル、幅30メートルの2段積みといいますから、
たいそう立派な石垣です。

ところがその石垣の下に住む村人から、
「危険だから止めてもらいたい」と言う抗議が出たのです。

その時の石屋さんの証書が残っています。

そこに書かれていたのは、
「万が一崩れた時は、お笑い下されたく候」でした。


昔の人は、人に笑われるのを最大の恥とした、
その事で村人たちも納得したというのです。
それほどまでに、日本人は民度が高かった。

同様の事は、明治10(1877)年から明治13年まで日本に滞在し、
東大で生物学を教えた米国の生物学者エドワード・S・モースも、
日本での体験として次の言葉を残しています。

「私が帰るまで金と時計をあずかってくれぬか」と亭主に頼んだら、
亭主は快く承知した。
召使が一人「ふたの無い浅い塗り盆」を持って私の部屋へ来て、
それが私の所有品をいれるものだといった。
で、それ等を彼女が出している盆に入れると、
彼女はその盆を畳の上に置いたまま出て行った。

私はいうまでもないが、彼女がそれを主人の所へ持って行き、
主人は何等かの方法でそれを保護するものと思って、
じりじりしながら待っていた。
ところが召使は帰ってこない。

私は彼女を呼んで、何故盆をここに置いて行くのかと訊ねた。
彼女はここに置いてもいいのですと答えた。

私は主人を呼んだ。
彼もまたここに置いても絶対に安全であり、
彼はこれ等を入れる金庫も他の品物も、持っていないのといった。

未だかつて日本中のいかなる襖にも、
錠も鍵もかんぬきも見た事が無い事実からして、
この国民が如何に正直であるかを理解した私は、
この実験をあえてしてみようと決心した。

恐らく私の留守中に何回か客が入るであろうし、
また家中の召使でも投宿客でも、
楽々と入り得るこの部屋のふたの無い盆に、
銀貨と紙幣とで八〇ドル、
それに金時計とを入れたものを残して私は出発した。

私達は一週間にわたる旅をしたのであるが、
帰ってみると時計はいうに及ばず、小銭の一セントにいたるまで、
私が残して行った時と全く同様にふたの無い盆に載っていた。

(中略)

人々が正直である国にいる事は実に気持がよい。
私は決して札入れや懐中時計の見張りをしようとしない。
錠をかけぬ部屋の机の上に、私は小銭を置いたままにするのだが、
日本人の子供や召使いは一日に数十回出入りしても、
触ってならぬ物には決して手を触れぬ。

私の大外套と春の外套をクリーニングする為に持って行った召使いは、
間もなくポケットの一つに小銭若干が入っていたのに気がついて
それを持って来たが、
また今度はサンフランシスコの乗合馬車の切符を三枚持って来た。


同様の事は、他の数多くの日本を訪れた外国人が記録として残しています。

つまり、元々日本は、極めて治安が良く、
民度が大変に高かった。
だからこそ、日本は、その高い民度のままに、
「公正」と「人道」と「信義」を世界の中にあっても
貫き通したのです。
そしてその事によって、日本は、
正に世界に認められる国となり、
ついに明治35(1902)年には、
当時の世界の最強国である英国と対等な
軍事同盟を締結するに至るのです。

白人国家の代表である世界最強の大英帝国と、
東洋の有色人種国家である日本が
「対等な同盟」をするというのは、
これこそ世界史に残る大事件です。
なぜなら、「カラード=猿」とみなす事が世界の常識であった時代に、
人間の代表が猿と同盟を結んだという事だからです。

言い換えれば、それが実現できるほどまでに、
日本は優れた人種国家であると世界が認めた、
という事です。

中でもベルギーは、元々はハプスブルグ家の
飛び地領土だったネーデルランドです。
レオポルド一世が立憲君主に即位する事で、
ベルギー王国となったのが、天保2(1831)年です。
つまり、日本と通商条約を締結した、僅か35年前に独立した国家です。

そしてそのベルギーは、道義と公正を目指す国家建設にあたり、
日本を模範としたともいわれています。
道徳心が高く公正な日本は、
欧州における新国家建設の模範とさえなりうる国家でもあったのです。

私達の先人達は、日本をして軍国主義、
大国主義を指向しようとしたのではありません。
日本にもとからある「公正」と「人道」と
「信義」の文化を護り、
伝統と歴史ある日本を守る為に
誇りをもって努力を積み重ねてきた。
それが、日本の近代史です。

その事を、私達はもう一度、
しっかりと見直すべき時にきたといえるのでは
ないでしょうか。





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転載元: 中川昭一氏のような保守を支持します&♡ ときめく人達♡


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