2012-02-12
真岡郵便局の悲劇![Comments Comments]()
かつて日本は美しかった誇りある日本、美しい日本へ
九人の乙女の悲劇。
昭和20年(1945年)8月9日、ソ連は日ソ中立条約を一方的に破り、日本へ宣戦布告してきました。樺太では北緯50度線を越えて、日本領へ侵入。8月15日、日本はポツダム宣言を受諾しましたが、ソ連の侵略は続きました。
8月20日朝、樺太の真岡にソ連軍艦がやってきました。このとき真岡郵便局は10名の電信主事と11名の電話交換手、試験係、郵便係、雑務手含めて25人が夜勤を勤めて朝を迎えていました。電話交換手11名はすべて女性で本局の別棟2階で業務を行っていました。そして非常呼集がかけられます。志賀晴代さんは前年戦死した兄の遺品である寄せ書きされた日の丸をブラウスの下に腹巻のように巻きつけ、さらに遺品であるゲートルをモンペのしたに巻いて防空頭巾をかぶり電話交換業務に向かいました。電話交換手は全部で12名となります。
電信主事 薬丸信子(※1)
「正直なところ、ソ連艦隊を見つけて足の震えが止まらなかったですよ」
ソ連艦隊は礼砲(空砲)を撃ちました。これに対して日本側が実弾で反撃したようですが、日本軍は発砲を禁じていました。真岡の憲兵隊か特警隊が発砲したという説があります。ソ連は真岡に艦砲射撃を加え、ソ連兵が上陸すると無防備な町民を自動小銃や手榴弾で殺戮していきました。
電信主事 薬丸信子
「走りながら窓を見上げるとソ連兵も走っていました」
電話交換室は別棟となっていたため若い女性12名だけで恐怖の中を過ごしていきます。そして主事補の高石ミキが青酸カリを飲んでしまいます。
交換手 岡田恵美子(※2)
「まるで、風邪薬を飲み込むようなしぐさの高石さんの姿が、いまも目に焼きついております」
「班長さん!」「高石さん、早まらないで!」「班長!」と叫び声が飛び交いましたが、高石ミキは席を立ち上がると胸をかきむしるような仕草で、倒れました。「お・か・あ・さ・ん」。
気を取り直して着台するよう班長代務となる可香谷シゲが声を出しましたが、可香谷シゲも紺の制服のポケットから青酸カリの包みを取り出し、口に入れ、高石の残した湯飲みで飲み込んだのです。こうなると連鎖的に次々と交換手は青酸カリで自決していきました。
豊原郵便局の交換室に真岡局から連絡が入りました。
「みんな薬を飲んで苦しんでいましたが、いまは静かになりました。どうしていいのかわかりません。指示してください」
豊原局で交換業務をしていた女性たちは凍りつきます。そして「ソ連軍が攻めてきました。もうだめです。私もこれから飲みます」と真岡からの交信が一旦途絶えてしまいます。「飲まないで!逃げて!」悲痛な叫びが豊原郵便局の交換室に響きました。
泊居局にも「もうどうしようもありません。これ以上だめです。私も薬を飲みます」と連絡が入り、「真岡さん、真岡さん、飲んじゃだめよ!」悲痛な叫びが発せられました。真岡から泊居への最後の交信は伊藤千枝からでした。
「もうみなさん死んでいます。わたしも乙女のまま清く死にます。泊居のみなさん、さようなら」
伊藤千枝は死の直前、内線で通信室に電話を入れました。通信室は事態を知り驚きます。すぐさま職員2名が急行し、生き残っていた3名が救出されました。(一人は遅れて救出)
※1 電信係の宿直室に避難した。生存者。
※2 交換室で生き残った三名のうちの一人。
参考文献
河出文庫「永訣の朝」川嶋康男(著)
河出書房新社「ダスビダーニャ わが樺太」道下匡子(著)
添付画像
日ソ開戦前の真岡港 国書刊行会「目で見る樺太時代」(PD)
あの時のことは、何故忘れ去られたのか?1/13