2012-02-09
南樺太の悲劇
かつて日本は美しかった
かつて日本は美しかった誇りある日本、美しい日本へ
忘れてはならない南樺太のこと。
「大東亜戦争の末期、日本領土で地上戦のあったのは、唯一、沖縄だけで、尊い命が失われた・・・」。これは沖縄全戦没者追悼式で村山元首相の言葉ですが、こういった誤った認識がつい最近までなされていました。昭和20年(1945年)8月9日、ソ連軍は日本の内地である南樺太に日ソ中立条約を破って侵攻してきています。
8月15日、ポツダム宣言受諾後もソ連軍は戦闘を続け、16日、間宮海峡に面した塔路にソ連軍が上陸。塔路、大平の住民は上恵須取方面へ避難しました。ところが、「上恵須取に既にソ連兵が入った」というデマが飛びます。このため、大平鉱業所病院の看護婦二十三名が避難の途中に退路を断たれたと思い込み、17日早朝、全員自決を図りました。避難途中に青酸カリのビンが割れ、致死量に至らなかったため手首を切った6人が死亡し、残りの17名は近くの製材工場の作業員らによって救出されました。
塔路では阿部庄松町長らがソ連軍と交渉し、「万事平和裡に行われたし」と要求するとソ連側は「日本人を各々自宅に帰還、平常の仕事に服させることと兵器を集め提出すること」を要求してきました。しかし、町長ら6人はそのまま留め置かれ処刑されました。
上恵須取の機銃掃射の体験談
「われわれも機銃掃射を浴びた。搭乗者の顔が見え、弾あしが土煙をあげて延びて行く。至近距離なのに一人の負傷者も出なかったのが、むしろ不思議なくらいだ。搭乗者の笑った様な顔が浮かぶ」
最も被害が大きかったのは真岡と言われています。8月20日にソ連軍は艦砲射撃を加え、上陸すると航空機で爆撃し、市民は自動小銃で無差別に殺戮されました。真岡郵便局では女子交換員9名が「これが最後です。ソ連軍の靴音が聞こえてきます。さようなら、内地の皆さん、さようなら」と最後に発信し、服毒自決しました。学校に避難していた女性たちはソ連兵の暴行にあい、さらに放火までされました。真岡では申し出があったものだけでも477人の死者・行方不明者が出ています。
豊原駅 北駅長
「夫人も老人もごろごろ倒れていた。さっきまで親たちの苦悩も知らぬげにはしゃいでいた子供が爆風で腹部を引き裂かれ、半袖のシャツを真っ赤に染めて、防空壕の入り口で死んでいた。死体は多く胸や腹をえぐられていた。それでもなおソ連機は、低空からの機銃掃射を繰り返した。血の流れ地面を叩く機銃音と爆音は、耳を聾するばかりだった」
停戦となってもソ連兵の略奪行為や民間人が射殺するケースが相次ぎ、真岡の酒造工場にソ連兵が侵入し、酒を勝手に飲むばかりか、女を要求し、拒むと工場を放火するというような事件も起きています。この間、工場の人はもはやこれまでと思い全員自決するつもりで、先に子供3人を手にかけてしまっていました。
警察官と憲兵は共産主義を弾圧したということで憎まれ、射殺されたり、シベリアに送られたりしています。約1,000名の官吏、警察、財界の指導者が4,000名の日本兵とともにシベリアに送られ、短くて5年、長くて11年(25年という話も)、シベリアで厳しい強制労働に服しました。
参考文献
文芸社「樺太回想録」太田勝三(著)
河出書房新社「ダスビダーニャ わが樺太」道下匡子(著)
河出文庫「永訣の朝」川嶋康男(著)
参考サイト
WikiPedia「樺太の戦い」
添付画像
豊原市の大通りの風景 国書刊行会「目で見る樺太時代」(PD)