Quantcast
Channel: 電脳工廠・兵器(武器,弾薬)庫
Viewing all articles
Browse latest Browse all 8971

[転載]女帝は中継ぎ役  「女性宮家反対」

$
0
0
女帝は中継ぎ役
 
我が国最初の女帝、推古(すいこ)天皇は、東アジアにおける女帝の先例となる。
崇峻(すしゅん)天皇が後継者を指名する前に殺害されたことで、後継争いが起き、
しかも有力な候補者が複数あったことから、その争いを避けるために、

推古天皇が即位することになった。即位して間もなく厩戸皇子(うまやどのみこ)
(聖徳(しょうとく)太子)が皇太子になったことから、推古天皇の即位と厩戸皇子の
立太子は一体のものだったと考えられる。つまり、推古女帝の誕生は、後継争いを
避けて政治的緩和をしつつ、次の皇太子を導き出すという役割を担ったことになる。

推古天皇の次の女帝である皇極(こうぎょく)天皇も後継争いを緩和するために
擁立された女帝であった。そして次の女帝、持統天皇は、継嗣たる我が子草壁皇子
(くさかべのみこ)(天武(てんむ)天皇皇子)が即位に必要な年齢に成長するまでの
間、中継ぎのために即位した女帝である。結局、草壁皇子は若くしてこの世を去るが、

その息子の珂瑠皇子(かるのみこ)「文武(もんむ)天皇」に皇位が伝えられた。
持統天皇は生前譲位して太上(だいじょう)天皇(上皇(じょうこう))となった
初めての天皇であり、初の年少天皇を成立させることになった。

次の女帝、元明(げんめい)天皇もまた、継嗣たる孫の成長を待っために中継ぎと
して即位した女帝である。元明天皇は娘(元正(げんしょう)天皇)に譲位し、
継嗣たる孫を立太子させ、そして親子二代で継嗣の成長を待つ形になった。

孝謙天阜は弟の安積(あさか)親王(聖武(しょうむ)天皇皇子)が庶系であった
ために、一定期間親王を皇太子とすることで、安全に皇位を継承させることをもくろみ、
親王に先立って即位した女帝である。ここでもやはり中継ぎ役であった。

そして平安時代に入ると皇太子の制度が整い、中継ぎとしての女帝は必要なくなる。
しかし、これまで見てきた六方八代の女帝の足跡は、皇太子制度をつくる上で大きな
影響を与えた。

その後江戸期に入って二方の女帝が現れたが、明正(めいしょう)天皇はわずか6歳で
践祚した女帝だった。紫衣(しえ)事件とそれに引き続く春日局(かすがのつぼね)
参内事件で幕府に激怒した 後水尾天皇が、不快感を顕(あらわ)に幼少の内親王を
即位させたことで859年ぶりに女帝が成立した。これは 後水尾天皇の幕府に対す
る報復措置であった。

我が国最後の女帝となる後桜町天皇は継嗣たる甥の英仁(ひでひと)親王が成長する
までの間、天皇の位に就いた。明正天皇は特殊な例だが、そのほかの女帝は、
皇位の後継争いを緩和する為、もしくわ継嗣の成長を待つために成立したのであり
、いずれも「中継ぎ」としての役割を担ったものだった。

続く
     
 
 
                                    竹田恒泰 著 「皇族たちの真実」より





転載元: サイタニのブログ


Viewing all articles
Browse latest Browse all 8971

Trending Articles