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[転載]コンゴの話     前編

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コンゴ民主共和国
 
 
 
「ザイール」という国名を聞いた事がある方も多いかと思います。
昭和46(1971)年にルワンダの支援を受けた
コンゴの反政府勢力が打ち立てた国で、
その後も内乱と戦闘が相次ぎ、
平成9(1997)年5月に、再び国名が「コンゴ」になりました。
コンゴは、昨年4月にも、北キブ州で国軍を
離脱した兵たちが武装蜂起して国軍と軍事衝突し、
残念な事ですが、今なお様々な武装勢力が
活動を活発に活動している、いわば危険地帯となっている国です。

けれども実は、15世紀の終わり頃まで、
この国はコンゴ王国として、
王制のもとに各部族が統一され、
近隣諸国とさかんな交易も行われる、
平和で大変に栄えた国だったのです。

それがなぜ、未だに内乱の中にあるのか。
実はそこに植民地支配の恐ろしさがあります。

はじめにコンゴに、西洋人達がやってきたのは、
1482年の事でした。
ポルトガル人がやってきたのです。
日本に西洋人がやってきたのは、
1543年(1542年という説もあり)の事で、
この年に鉄砲も伝来しました。
コンゴにポルトガル人がやってきたのよりも、約60年後の事です。
簡単にいえば、大体似たような時期に、
ポルトガル人がやってきたわけです。

コンゴでは、最初にポルトガル人がやってきた
2年後の1485年には、コンゴ王国と
ポルトガル王国との間で国交が結ばれています。
この国交条約は、双方の国が
「対等な関係」にたつという内容のものでした。
共に五分と五分のお付き合いをする。
但し違うのは、ポルトガル宣教師による
キリスト教の布教を認める事が、条件となっていた事です。

コンゴはこれを承諾しました。
人の道を解く宗教であるし、
これといって問題視することもないと思われたからです。
1491年には、ローマから宣教師も派遣されています。
そしてコンゴ国王のジンガ・クウは、自身をカトリックに改宗し、
更に自分の息子で王子のジンガ・ムペンパを、
ポルトガルに留学させました。

ムペンパは、ポルトガルにいて学問を修め、
1506年に父親の後を継いでコンゴ国王に即位しています。
そして彼は、積極的なコンゴの欧化政策を採りました。
更に、多くのポルトガル人を受け入れ、コンゴの近代化に励んだのです。

と、ここまでは、悪くない話です。
ところが、そうした欧化政策と、
ポルトガル人の招聘(しょうへい)の為に、
コンゴ国内にポルトガルの奴隷商人達が、大量に入り込み出したのです。

奴隷商人達は、人の売り買いをするわけですが、
元手は、そこらへんで捕まえてきた黒人です。
多少の経費はかかりますが、元手はタダです。
そして奴隷は高値で売れます。
今で言ったら、車を買うような感覚と考えるとわかりやすいです。
元手がタダの新車が、飛ぶように売れたのです。
ですから奴隷商人達は、またたく間に大変な金持ちとなりました。
そしてコンゴの国政を平然と壟断(ろうだん)しはじめたのです。

コンゴは、元々貿易立国していた商業国でした。
それだけに、欧州経済をいち早く
受け入れる事ができるだけの土壌も育っていたのです。

けれど、コンゴ人がコンゴで行う商売と、
外国人がコンゴで行う商売は、その本質がまるで異なりました。
コンゴは歴史ある王国です。
ですからコンゴ王国の民衆も、
自然の愛国心や、愛郷心が育まれていました。
しかも、身内が同じ国内に沢山いるわけですから、
当然の事として、一定の規律は守られていたのです。

ところが、外国人であるポルトガル商人達には、
そうしたコンゴへの愛国心も愛郷心もありません。
あるのは、欲得だけです。
そして彼らは、あらゆる方法を使って自分達の行いを正当化し、
気がつくとコンゴ国内は、ポルトガル人の奴隷商人達と、
その下請けとなったコンゴ人達が、
経済的政治的に多大な影響力を持つようになっていたのです。

事態を憂慮したコンゴ国王は、ポルトガル王に対し、
奴隷貿易を止めるようにとの書簡を送りました。
けれど、ポルトガルは、コンゴ政府ではなく、
コンゴ国内の治安維持に責任を持っているわけでもありません。
当然の事ですが、ポルトガルは、ポルトガルの都合で動きます。

ですから当然のように、コンゴ国王の書簡は無視されました。
そして本国政府が黙認する事に
自信を深めたポルトガルの奴隷商人達は、
ますますコンゴにおける奴隷貿易を盛んにし、
ついにコンゴは、アフリカにおける
最大の奴隷貿易の中心地となってしまったのです。

コンゴの民衆も怒りました。
当然だろうと思います。
ある日突然、家族が、子供達が
白人達に追いかけ回されて網ですくわれ、拉致され、
奴隷、つまりモノとして勝手に売買されてしまうのです。
それでもコンゴ人達は、敬愛する国王を信じ、
事態が必ず解決し、いつか拉致された人々も
国に戻れる日が来ると信じました。
そして、そんな日が来ないまま、
コンゴ国王が永眠してしまったのです
(毒殺されたという話もあります)。

国王が亡くなると、コンゴの民衆は、ついに暴発しました。
民衆は反乱し、暴動が相次いだのです。

ところがその頃のコンゴには、
もはや民衆の暴動を鎮圧できるだけの力は残っていませんでした。
博愛主義を説くキリスト教によって、
コンゴ国王の武力は否定され、
コンゴ国軍は、殆ど解体状態となっていました。
しかも適齢期の若者達は、
男女を問わず奴隷狩りにあって、その多くが連れ去られています。

それでも、コンゴ国王は、何とか暴動を鎮圧しようとしました。
国内の平和と安定は、国王としての使命だからです。

そんなところに起きたのが、1568年のジャガ族の襲来です。
これまた「やらせ」だったという話もありますが、
ジャガ族という無法者集団が、コンゴ国内に攻め込み、
一部の奴隷商人を襲撃し、更にキリスト教施設を破壊したのです。

コンゴ国王は、やむなくこの鎮圧の為に、
同盟国であるポルトガルに、鎮圧の為の軍事支援を要請しました。
すでにコンゴ王単独で武装集団を退治するだけの国力が、
コンゴ王室になかったからです。

要請を受けたポルトガル軍は、またたく間に、ジャガ族を鎮圧しました。
けれど、事態はそれだけに終わりませんでした。
既に国軍が衰退している事を知ったポルトガルは、
ここにきて、コンゴ王国との関係を、
対等な関係から、主従関係へと変更する事を要求してきたのです。

圧倒的な軍事力を持ったポルトガルに、
武力のないコンゴ王は従わざるを得ませんでした。
こうしてコンゴは、ポルトガルの従属国となったのです。

属国となっても、コンゴ王国は、細々と存続し続けました。
けれどそれは国として存続したというよりも、
国王を名乗る家がコンゴ地方内に存続していた、
というだけの情況というべきものでした。
国は荒れました。
殆ど無政府状態で、武装した奴隷商人達が
ほしいままに闊歩し、贅沢な暮らしを満喫し、
コンゴの民衆はひたすらそれにおびえながら、
極貧生活を余儀なくされる状態となったのです。

こうして300年が経ちました。
この情況に変化が起きたのは、1885年の事です。
ベルリン会議の決定によって、ベルギーが、
コンゴの新たな支配者となったのです。

ベルギー国王のレオポルド2世は、
コンゴを「コンゴ独立国」とし、自身でコンゴの元首となり、
コンゴを自由貿易の国としました。
ただし、カタチは自由貿易の独立国であっても、
コンゴは、土地も人も一切合切、レオポルド2世の私有物です。

ですから、ベルギー領となったコンゴの政府は、コンゴにはありません。
コンゴ政府は、ベルギーのブリュッセルに置かれました。
レオポルド2世も、コンゴへは足を運んでいません。
コンゴへは、総督が派遣されました。

実際には私有地、私有財産にすぎないのに、
カタチだけは独立国、ですから英国人達は、
これを揶揄して、コンゴの事を
「Congo Free State(コンゴ自由国)」と冷笑しました。
今でも当時のコンゴの事を
「コンゴ自由国」と呼ぶ学者がいますが、酷い事です。

コンゴを私物化したベルギー国王は、
1830年にオランダ(ネーデルラント)から独立したばかりでした。
その親元の国であるオランダは、
世界中に圧倒的な植民地を持ち、巨富を得ていました。

ですからベルギーからコンゴに派遣された総督の任務は、
ベルギー初の植民地(私有地)であるコンゴから、
一日も早く経済的利益をあげる事でした。
しかしこの頃には、奴隷貿易は既に下火になっていました。
しかもコンゴ独立国建国当初はインフラ整備に経費がかかり、
更にコンゴには奴隷以外に主たる産業も産物もなかった事から、
コンゴの経営は大変に苦しいものでした。
当初の状態は、寧ろベルギー政府の持ち出しの方が大きかったのです。

ところが、その頃から事情に変化があらわれます。
英国で、1887年に、自転車用のゴムタイヤが発明されたのです。
これは大変な技術革新でした。
そしてその技術が自動車のタイヤにも応用されるようになったのです。

こうなると、ゴムの需要がうなぎ上りです。
そしてゴムの木は、他に産業らしい産業のないコンゴの、
国中のいたるところに、自生していたのです。

コンゴにやってきていたベルギー人達は、ゴムの採取に目を付けました。
そしてコンゴ人達を使って、徹底的にゴムの採取を行ったのです。
おかげで、コンゴのゴムの生産高は、
20世紀のはじめには、
世界全体の生産高のほぼ10%を占めるに至りました。
ベルギーは、コンゴ産ゴムによって、
経済的に大変に潤う事になりました。
苦労してコンゴを入手したベルギー国王が
喜んだ事は、いうまでもありません。

ところが、そうした生産高を上げる為に、

現地で何が行われていたのか。
 
 
 
*続きます。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
                            
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転載元: 中川昭一氏のような保守を支持します&♡ ときめく人達♡


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