さぬき広島は瀬戸内海北部の水島灘に浮かぶ島。香川県丸亀市広島町に属し、塩飽諸島の島の中では最大の面積をもつ。北端の地形はやや尖った形をしています。
江の浦集落の東、広島小学校の裏手東の道端に一風変わった遺跡(いせき)が残されています。丸亀(まるがめ)からの定期便が着く江(え)の浦(うら)にあるイギリス人士官、レキの墓がそれです。このレキの墓にまつわる話は、幕末の江戸時代にさかのぼります。
慶応(けいおう)二年(一八六六年)十一月、イギリス海軍の軍艦(ぐんかん)シルビア号が瀬戸内海で測量(そくりょう)を行っていました。しかし、不幸なことにこの海域で任務を遂行(すいこう)している途中、乗組員だったレキ士官が病に倒れ、広島沖で亡くなってしまいます。
シルビア号の艦長(かんちょう)を始めとする乗組員一同は、やむを得ずレキ士官の棺(ひつぎ)をともなって広島の江の浦の海岸に上陸し、レキの棺を埋めました。そして盛り土の上に十字架(じゅうじか)の墓標(ぼひょう)を建て、帰っていったのです。
このときのことについて、当時シルビア号の艦長や乗組員が上陸したときの様子を見ていたおばあさんが、
「鉄砲(てっぽう)を持った異国人たちが、遺体(いたい)をかついでムカデのような船で上陸した」
と、話していたことが伝えられています。
こうしてシルビア号の乗組員の手によってとむらわれたレキ士官の墓ですが、墓標(ぼひょう)の十字架(じゅうじか)が問題となりました。
というのも、当時の日本ではキリスト教は異教徒(いきょうと)とされ、その布教はもちろん、十字架を掲げることも許されてはいなかったからです。異教徒への取締りは大変に厳しいもので、レキ士官の墓標である十字架もキリスト教の象徴(しょうちょう)と見なされ、見つかるやいなや役人の手によって取りはずされ、焼き捨てられてしまったのです。
この様子を見ていた純朴(じゅんぼく)な島民たちは、墓標もないまま異国の地に眠るレキ士官を哀(あわ)れに思ったのでしょう。レキの霊を慰(なぐさ)めるため、「長谷川三郎兵衛之墓(はせがわさぶろべえのはか)」という日本風の名前を付け、墓標を建てて手厚くとむらいました。
それから二年後、時代は明治へと変わりました。レキ士官の墓のある広島の江の浦に岡良伯(おかりょうはく)という人物が住んでいました。
岡良伯は、医師で、その地域の庄屋(しょうや)でもありました。彼は「長谷川三郎兵衛之墓」が、イギリス人のレキ士官の墓であるということを忘れてはいませんでした。
「長谷川という異国名ではレキ士官の霊(れい)も安らかに眠ることはできないだろう」と岡良伯は思ったのです。
そこで明治元年(一八六八年)、新たな墓石に「英国士官(えいこくしかん)レキ之墓(のはか)」と、レキ本人の名を刻んだ立派な墓を建て、あらためてその霊をとむらったのです。
時は移り、明治二十九年(一八九六年)。シルビア号が再び広島の江の浦近くを航行したときのことです。
このときのシルビア号の艦長は、昔、レキの同僚士官だったジョン艦長でした。彼は、旧友をしのぶため、シルビア号の乗組員一同を連れて再び広島の江の浦の海岸をおとずれることにしました。
そこで上陸した彼らが目にしたのは、立派な石碑(せきひ)に、たくさんの供物(そなえもの)や美しい花が供(そな)えられたかつての仲間の墓でした。まさかこのように手厚くとむらわれているとは思いもよらなかったことでしょう。
ジョン艦長を始め乗組員は皆一様に驚き、島の人々の温かい気持ちに感激したそうです。
そしてシルビア号が帰国した後、イギリス公使館(こうしかん)を通じて広島の江の浦の人々にジョン艦長から感謝状が送られてきました。
そこには次のように書かれていました。
江の浦集落の東、広島小学校の裏手東の道端に一風変わった遺跡(いせき)が残されています。丸亀(まるがめ)からの定期便が着く江(え)の浦(うら)にあるイギリス人士官、レキの墓がそれです。このレキの墓にまつわる話は、幕末の江戸時代にさかのぼります。
慶応(けいおう)二年(一八六六年)十一月、イギリス海軍の軍艦(ぐんかん)シルビア号が瀬戸内海で測量(そくりょう)を行っていました。しかし、不幸なことにこの海域で任務を遂行(すいこう)している途中、乗組員だったレキ士官が病に倒れ、広島沖で亡くなってしまいます。
シルビア号の艦長(かんちょう)を始めとする乗組員一同は、やむを得ずレキ士官の棺(ひつぎ)をともなって広島の江の浦の海岸に上陸し、レキの棺を埋めました。そして盛り土の上に十字架(じゅうじか)の墓標(ぼひょう)を建て、帰っていったのです。
このときのことについて、当時シルビア号の艦長や乗組員が上陸したときの様子を見ていたおばあさんが、
「鉄砲(てっぽう)を持った異国人たちが、遺体(いたい)をかついでムカデのような船で上陸した」
と、話していたことが伝えられています。
こうしてシルビア号の乗組員の手によってとむらわれたレキ士官の墓ですが、墓標(ぼひょう)の十字架(じゅうじか)が問題となりました。
というのも、当時の日本ではキリスト教は異教徒(いきょうと)とされ、その布教はもちろん、十字架を掲げることも許されてはいなかったからです。異教徒への取締りは大変に厳しいもので、レキ士官の墓標である十字架もキリスト教の象徴(しょうちょう)と見なされ、見つかるやいなや役人の手によって取りはずされ、焼き捨てられてしまったのです。
この様子を見ていた純朴(じゅんぼく)な島民たちは、墓標もないまま異国の地に眠るレキ士官を哀(あわ)れに思ったのでしょう。レキの霊を慰(なぐさ)めるため、「長谷川三郎兵衛之墓(はせがわさぶろべえのはか)」という日本風の名前を付け、墓標を建てて手厚くとむらいました。
それから二年後、時代は明治へと変わりました。レキ士官の墓のある広島の江の浦に岡良伯(おかりょうはく)という人物が住んでいました。
岡良伯は、医師で、その地域の庄屋(しょうや)でもありました。彼は「長谷川三郎兵衛之墓」が、イギリス人のレキ士官の墓であるということを忘れてはいませんでした。
「長谷川という異国名ではレキ士官の霊(れい)も安らかに眠ることはできないだろう」と岡良伯は思ったのです。
そこで明治元年(一八六八年)、新たな墓石に「英国士官(えいこくしかん)レキ之墓(のはか)」と、レキ本人の名を刻んだ立派な墓を建て、あらためてその霊をとむらったのです。
時は移り、明治二十九年(一八九六年)。シルビア号が再び広島の江の浦近くを航行したときのことです。
このときのシルビア号の艦長は、昔、レキの同僚士官だったジョン艦長でした。彼は、旧友をしのぶため、シルビア号の乗組員一同を連れて再び広島の江の浦の海岸をおとずれることにしました。
そこで上陸した彼らが目にしたのは、立派な石碑(せきひ)に、たくさんの供物(そなえもの)や美しい花が供(そな)えられたかつての仲間の墓でした。まさかこのように手厚くとむらわれているとは思いもよらなかったことでしょう。
ジョン艦長を始め乗組員は皆一様に驚き、島の人々の温かい気持ちに感激したそうです。
そしてシルビア号が帰国した後、イギリス公使館(こうしかん)を通じて広島の江の浦の人々にジョン艦長から感謝状が送られてきました。
そこには次のように書かれていました。
一八六六年、この地に 葬 ( ほうむ ) られたイギリス海軍将校の墓を、当時お世話になり、保護してくださった、 貴下 ( きか ) および広島住民の方々のご好意ご親切に対し、厚く御礼を申し上げます。
一八九六年十一月二十九日
シルビア号にてエイチ・シイ・エス・ジョン
この話は、明治初期における人々の心の豊かさを物語り、博愛と 人道 ( じんどう ) に満ちた国際親善の美談として、今もなお語り継がれています。
偽りの歴史を教えられ、自信を失くした日本人は、今一度自らの手で先人を訪ね、先人の偉業、誇り高き精神を学び、後世へと語り継ぐべきです。
それが現世に生きる我々の使命でもあるのです。