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独島:日本の主張覆す19世紀資料、韓国で公開
2013/05/09 10:54
日本海軍の測量報告書「隠岐回航略記」
「17世紀から独島(日本名:竹島)を自国領と認識してきた」という日本の主張を覆す資料が新たに見つかった。
東国大学対外交流研究院の韓哲昊(ハン・チョルホ)院長(歴史教育科教授)は8日、日本海軍の水路部が1879年に作成した測量報告書「隠岐回航略記」を公開した。測量責任者だった肝付兼行は報告書で、隠岐諸島の位置を「北緯35度57分-36度18分、東経132度-133度23分」と記録しているが、これは北緯37度14分、東経131度51-53分という独島の位置とは全く異なる。独島は隠岐諸島に属するという現在の日本政府の主張とは異なり、当時の日本は独島を自国領に含めていなかったというわけだ。
韓院長は、こうした認識は1879年と83年に日本海軍の筑波艦が日本列島の周囲を航海して航路を示した地図にも表れていると説明する。特に、83年の地図「筑波艦第3回日本環海航跡之(の)図」(写真)では、琉球や遠い太平洋の小笠原諸島までが描かれているにもかかわらず、独島の表示はない。
兪碩在(ユ・ソクチェ)記者
「アホだ…。」
「>17世紀から独島(日本名:竹島)を自国領と認識してきた。 17世紀の1656年には幕府は「松島(現・竹島)」への渡航許可を出しているので、少なくともそれ以前に「竹島」は日本人の経営支配下に入っていたことを意味します。 >1879年に作成した・独島は“隠岐諸島”に属するという現在の日本政府の主張とは異なり、当時の日本は独島を自国領に含めていなかったというわけだ。 本当に馬鹿だな。「竹島」の島根県編入、「隠岐島司の所管」と定めたのが「1905年(明治38年)」なので「1879年(明治12年)」はまだでしょう?正式に「島根県編入」という行政上のことが1905年というだけで、渡航許可が出ているように「漁場」として日本人が活用していたから、日本の管轄する土地だという「認識」があるのですよ?」
「国立公文書館に所蔵してある『隠州視聴合記 巻之一』には、隠岐のことが書かれてある。この書は「1667年江戸時代初期」に隠岐郡代という役人を務めた松江藩士・斉藤豊仙が書いたものです。約2ヶ月を掛けて隠州(隠岐島)を巡察した際の、「視て」「聴いた」ことを採録した近世隠岐の地誌(調査報告書)です。この『隠州視聴合記 巻之一』の『国代記』に隠岐、竹島、鬱陵島の位置関係が書かれてある。」
[原文]
隠州在北海中故云隠岐島、[按倭訓海中言遠幾故名歟]、 其在巽地言嶋前也、 知夫郡海部郡屬焉、 其位震地言嶋後也、 周吉郡穩地郡屬焉、 其府有周吉郡南岸西豊崎也、 従是、南至雲州美穂関三十五里、辰巳至伯州赤碕浦四十里、未申至石州温泉津五十八里、自子至卯、無可往地、戍亥間行二日一夜有松島、又一日程有竹島、[俗言磯竹島多竹魚海鹿、按神書所謂五十猛歟]、此二島無人之地、見高麗如雲州望隠州、然則日本
[口語訳]
隠岐島は北海(日本海)の中にある。[思うに、大和言葉で海の中を「おき」というので、このように名付けたのだろうか] その南東にある地を島前と言う。 知夫郡と海部郡がこれに属する。 その東にある地を島後と言う。 周吉郡と穏地郡がこれに属する。 その府は周吉郡南岸の西郷豊崎である。 隠岐島より南、島根県の美保関までは35里。(隠岐島から見て)東南にある鳥取県の赤碕浦までは40里。南西にある島根県の温泉津までは58里。北から東に至る間には、目安となる地がない。北西の間には、二日一夜行くと、松嶋(現・竹島)がある。さらに、一日の行程のところに竹島(現・鬱陵島)がある。[俗に磯竹島という。竹・魚・アザラシが多い。思うに神書に記述のある五十猛の神だろうか。]この松嶋と竹嶋の2島は無人島である。そこ(現・鬱陵島)から朝鮮が見えるのは、ちょうど出雲から隠岐島を遠望するのと同じである。ならば即ち、日本
隠州在北海中故云隠岐島、[按倭訓海中言遠幾故名歟]、 其在巽地言嶋前也、 知夫郡海部郡屬焉、 其位震地言嶋後也、 周吉郡穩地郡屬焉、 其府有周吉郡南岸西豊崎也、 従是、南至雲州美穂関三十五里、辰巳至伯州赤碕浦四十里、未申至石州温泉津五十八里、自子至卯、無可往地、戍亥間行二日一夜有松島、又一日程有竹島、[俗言磯竹島多竹魚海鹿、按神書所謂五十猛歟]、此二島無人之地、見高麗如雲州望隠州、然則日本
[口語訳]
隠岐島は北海(日本海)の中にある。[思うに、大和言葉で海の中を「おき」というので、このように名付けたのだろうか] その南東にある地を島前と言う。 知夫郡と海部郡がこれに属する。 その東にある地を島後と言う。 周吉郡と穏地郡がこれに属する。 その府は周吉郡南岸の西郷豊崎である。 隠岐島より南、島根県の美保関までは35里。(隠岐島から見て)東南にある鳥取県の赤碕浦までは40里。南西にある島根県の温泉津までは58里。北から東に至る間には、目安となる地がない。北西の間には、二日一夜行くと、松嶋(現・竹島)がある。さらに、一日の行程のところに竹島(現・鬱陵島)がある。[俗に磯竹島という。竹・魚・アザラシが多い。思うに神書に記述のある五十猛の神だろうか。]この松嶋と竹嶋の2島は無人島である。そこ(現・鬱陵島)から朝鮮が見えるのは、ちょうど出雲から隠岐島を遠望するのと同じである。ならば即ち、日本
[原文]
之乾地、以此州為限矣。(以下省略)
[口語訳]
の北西の地は、この州(島)をもって境とする。
之乾地、以此州為限矣。(以下省略)
[口語訳]
の北西の地は、この州(島)をもって境とする。
「>隠岐諸島の位置を「北緯35度57分-36度18分、東経132度-133度23分」と記録しているが、これは北緯37度14分、東経131度51-53分という独島の位置とは全く異なる。 当たり前だ。「竹島」は隠岐諸島の北西約157キロメートルですから、位置は違います。アホだ…。」
「>韓院長は、こうした認識は1879年と83年に…。 「1724年(享保9年)」、鳥取藩から幕府へ提出した図に『竹嶋之図』がありますが、何か?」
▲これは米子市立山陰歴史館が所蔵する「松島絵図」(1656年)の複写(左)と、韓国・国立海洋調査院が刊行した現代の竹島の海図(右)。
「>83年の地図「筑波艦第3回日本環海航跡之。 この地図は「北方領土」が無いけど、ロシアの脅威によって、本腰をあげて北方領土の調査をはじめた江戸幕府の命を受けた近藤重蔵は、本格的な地図を1802年に作製しています。」
▲近藤重蔵が作製した蝦夷地図(1802年)
「全く何も覆していない。「独島の表示はない。」って、相も変わらず解っていないようですけど、「竹島」が描かれていない日本の古い地図だけを選んで出しても、それが韓国の領有権には全くならないと、いつになれば気付くの?それとも騙すための確信犯?「地図に描いていない」と言うなら韓国が現在の竹島を描いたものだと言い張る「于山島」は「竹島/独島」ではありません。明らかに「于山島」は「鬱陵島の隣接島」の「竹嶼」ですから、韓国に竹島を描いた古地図が全然無いじゃないの?もう、捏造が見苦しい。」
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