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良識ある日本国民の皆様には、韓国の国会が閣僚の靖国神社参拝と安倍首相の発言を糾弾する決議を採択したことはご存知だと考えます。
靖国参拝と首相発言を糾弾=韓国国会が決議http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130429-00000059-jij-kr
【ソウル時事】韓国国会は29日の本会議で、麻生太郎副総理ら閣僚の靖国神社参拝と安倍晋三首相の歴史認識をめぐる発言を糾弾する決議を採択した。賛成238票、棄権1票だった。
決議は「一部閣僚と多くの国会議員がA級戦犯が合祀(ごうし)された靖国神社を参拝し、首相らが侵略戦争を否認する発言をしたことは、未来志向的な韓日関係と北東アジアの平和に深刻な影響を与える」と非難。これらの行為の中止と、心からの謝罪を求めた。
その上で、韓国政府に強力な対応を要求、国際社会にも問題の深刻さを認識し、共同で対処するよう求めた。
安倍首相は23日の国会答弁で、「侵略の定義は国際的に定まっていない」と述べた。
時事通信 4月29日
>韓国国会は29日の本会議で、麻生太郎副総理ら閣僚の靖国神社参拝と安倍晋三首相の歴史認識をめぐる発言を糾弾する決議を採択した
これまで韓国の国会は数々の反日決議をしていますが、もう「日韓国交断絶」をする決議を採択するべきです。
そして、韓国政府に要求するべきです。
韓国の首相と韓国メディアは、妄想の反日歴史を持ち出して日本を非難しています。
韓国の首相は、「秀吉の文禄・慶長の役から400年以上たった今でも、日本は過去の誤りを認めていない」と発言しました。
韓国首相 日本のリーダーに正しい歴史認識求めるhttp://japanese.yonhapnews.co.kr/relation/2013/04/28/0400000000AJP20130428001000882.HTML
【牙山聯合ニュース】韓国の鄭ホン原(チョン・ホンウォン)首相は28日、靖国神社をめぐる安倍晋三首相の発言や閣僚らの参拝に関連して、「日本政界のリーダーは正しい歴史認識を持ち、友好関係の回復のために努力すべきだ」と主張した。
忠清南道・牙山の顕忠祠で行われた「第468回忠武公(李舜臣)誕生記念式典」に参加した際に述べた。
李舜臣(イ・スンシン)は日本の侵略戦争・壬辰倭乱(文禄・慶長の役)の際に朝鮮水軍を率いた韓国の英雄。鄭首相は、「壬辰倭乱が終わって約400年、日本の植民支配から解放されて60年以上がたった今でも、日本は過去の誤りを認めていない」と指摘した。
2013/04/28聯合ニュース抜粋
>李舜臣(イ・スンシン)は日本の侵略戦争・壬辰倭乱(文禄・慶長の役)の際に朝鮮水軍を率いた韓国の英雄。鄭首相は、「壬辰倭乱が終わって約400年、日本の植民支配から解放されて60年以上がたった今でも、日本は過去の誤りを認めていない」
寝言は寝て言え^^
当時の朝鮮は明の属国でした。
1602日本海(Sea of Japan)「坤輿萬國全図」
韓国は「慶長の役」で、「李舜臣将軍率いる朝鮮水軍が鳴梁海戦で日本水軍を撃破し、全羅道西岸への進出を阻止した」などと主張をしています。
韓国人は、「李舜臣将軍は鳴梁海戦で、わずか13隻の船で133隻の日本軍艦隊を撃破し、世界の海戦史に残る大勝利を収めた」と信じています。
しかし実際には、朝鮮水軍は日本水軍の先鋒を地の利を生かして攻撃した後は、日本水軍との戦力差からそれ以上の攻撃を行わずに撤退しています。
これにより、戦場の制海権は日本に移ったために、朝鮮水軍の基地である全羅道右水営や対岸の珍島を攻略し、日本水軍の侵攻は成功しました。
それなのに、韓国人はこの歴史的事実を知りません。
韓国ではこの海戦は歴史教科書にも載っており、国民に広く知られているが、内容としては「西進しようとした日本軍に大打撃を与えてそれを阻止した」ということのみが強調されており、戦闘の後に李舜臣が北方に退却し、日本水軍が西岸に進出して戦略目的を達成したという事実は、一般的にはほとんど認識されていない。
韓国は、「豊臣秀吉の朝鮮出兵の犠牲者の立場である韓国人」としていますが、事実ではありません、
文禄の役で豊臣秀吉軍は、釜山上陸からわずか二十日間で首都・漢城を陥落させて、激戦にもなりませんでした。
豊臣秀吉軍は、李氏朝鮮の支配階級に虐げられていた朝鮮民衆の解放軍として迎え入れられ、多数の朝鮮民衆が秀吉軍に従軍しました。
実際に秀吉軍が戦った相手とは、明軍と、明の支援を受けた朝鮮の支配階級軍でした。
李氏朝鮮の支配勢力(第14代王宣祖と両班ら)の圧政からの解放を願っていた朝鮮の民衆が、支配をアジア広域に広げようとした秀吉の政策と利害が一致し利用しました。
講和交渉も日本と明の間で行われ、朝鮮は講和交渉にも参加していません。
豊臣秀吉の朝鮮出兵とは、秀吉軍と朝鮮民衆が、明軍と朝鮮支配階級軍と戦ったのが史実です。
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韓国メディアは、「日本がもし大韓帝国(韓国)に侵略されていたら、どうだっただろうか」という、歴史の「たら・れば」報道をしました。
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2013/04/29/2013042900845.html日本が「侵略」されていたら
歴史に「たら・れば」は禁句だというが、日本がもし近代史で「侵略」されていたら、どうだっただろうか。
例えばこうだ。1895年10月8日の夜明け前、大韓帝国(韓国)の浪人48人が東京・千代田区の皇居に侵入し、皇后に朝鮮刀を突き付ける。浪人たちは皇后を殺害し、その遺体に枯れ枝を積んで火を付ける。
10年後、韓国は東京の中心に軍隊を派遣し、明治天皇を脅迫して日本の外交権を奪う条約を強制的に締結させる。明治天皇は1907年、オランダ・ハーグに密使を送り、日本を植民地にするという韓国の陰謀を国際社会に告発しようとするが、息子(後の大正天皇)に天皇の地位を無理やり譲る羽目になる。2013/04/29 朝鮮日報抜粋
>1895年10月8日の夜明け前、大韓帝国(韓国)の浪人48人が東京・ 千代田区 の皇居に侵入し、皇后に朝鮮刀を突き付ける。浪人たちは皇后を殺害し、その遺体に枯れ枝を積んで火を付ける
日本人は朝鮮王妃を殺害していない!
「閔妃暗殺事件」の首謀者も実行犯も朝鮮人であり、朝鮮駐在の三浦五郎公使ら日本人は少し手を貸しただけです。
当時の朝鮮では、閔妃(朝鮮王妃)と興宣大院君(国王高宗の父)が権力闘争を繰りひろげていました。
閔妃は、内政が混乱して大院君側が権力を取り戻すと、その都度、清をけしかけたりロシアにすがったりして、自分の権力の保持をしました。
このため、朝鮮国内は完全に大院君側と、閔妃側の2つに割れていました。
その状況下で起ったのが、1895年10月8日の閔妃暗殺事件(乙未事変)です。
このため、朝鮮国内は完全に大院君側と、閔妃側の2つに割れていました。
その状況下で起ったのが、1895年10月8日の閔妃暗殺事件(乙未事変)です。
王宮に侵入したのは殆どが朝鮮人であり、高宗の間近で王妃を殺害したのは間違いなく朝鮮人でした。
現場に居た国王の高宗は、「王妃を殺したのは私の部下だ」と、犯人が朝鮮人だと証言しています。
現場に居た国王の高宗は、「王妃を殺したのは私の部下だ」と、犯人が朝鮮人だと証言しています。
「王妃を殺したのは、不貞の私の部下だ」と現場に居た高宗が証言
(1906年 統監代理長谷川好道韓皇謁見始末報告(國分書記官通訳并筆記)
(1906年 統監代理長谷川好道韓皇謁見始末報告(國分書記官通訳并筆記)
高宗の弟の純宗も現場に居て、「国母を殺したのは、禹範善(ウ・ボムソン)だ」と、犯人が朝鮮人だと証言しています。
「国母を殺したのは、禹範善だ」と現場に居た純宗が証言。
(往電31号)(後に純宗は刺客を放ち、禹範善を暗殺)
(往電31号)(後に純宗は刺客を放ち、禹範善を暗殺)
そして、閔妃暗殺実行犯の朝鮮人・禹範善も「王妃を直接殺したのは私です」と自白しています。
「王妃を直接殺したのは、私です」と実行部隊隊長の禹範善の証言。
(在本邦韓国亡命者禹範善同国人高永根魯允明等ニ於テ殺害一件)
(在本邦韓国亡命者禹範善同国人高永根魯允明等ニ於テ殺害一件)
李周會、尹錫禹、朴銑の裁判官報
朝鮮での(リ、ユン、パク、朝鮮人3人の)裁判官報に、李周會(リ・シュウカイ)が「王妃殺害を今回計画したのは、私です」と証言した記載がある。
朝鮮での(リ、ユン、パク、朝鮮人3人の)裁判官報に、李周會(リ・シュウカイ)が「王妃殺害を今回計画したのは、私です」と証言した記載がある。
カルネイェフ・ロシア参謀本部中佐は、「1895―1896年の南朝鮮旅行」の章で、「1895年11月26日に実行された王妃暗殺では、間違いなく大院君(国王高宗の父)がかなりの役割を演じていた」と述べています。
つまり、閔妃暗殺事件の首謀者は大院君で、実行犯が禹範善であり、首謀者、計画者から実行犯まで朝鮮人であることが判明しています。
つまり、閔妃暗殺事件の首謀者は大院君で、実行犯が禹範善であり、首謀者、計画者から実行犯まで朝鮮人であることが判明しています。
>10年後、韓国は東京の中心に軍隊を派遣し、明治天皇を脅迫して日本の外交権を奪う条約を強制的に締結させる
日本は脅迫し条約を強制していない!
1905年(明治38年)11月17日、日本と韓国は、「第二次日韓協約」を締結しました。
第二次日韓協約により、日本は、韓国の外交を監理指揮するとされ、大韓帝国は日本の保護国になりました。
歴史を捏造する韓国は、第二次日韓協約の交渉の際、「伊藤博文が韓国駐箚軍(日本軍)にソウルと宮殿を包囲させた」と、条約の不法性を主張しています。
韓国では、儒者などによる「騒擾(テロ)」が、日露戦争中の1904年(明治37年)から異常に多く発生して日本を悩ませていました。
韓国駐箚軍が王宮前広場などで演習を行った日は、李完用学部大臣の邸宅が焼き討ちされる等の状況でした。
日本は、テロ防止の目的からソウル市内と宮殿を警護しただけで、第二次日韓協約締結は不法ではありません。
第二次日韓協約の交渉中、韓国皇帝の高宗らが儒者などを使った「テロ」を企てており、伊藤博文は韓国側の策略を知りました。
1905年11月15日の高宗との内謁見で、伊藤博文は「昨今儒生輩を扇動して上疏献白を為し秘密に反対運動を為さしめつつありとの事は、疾く我軍隊の探知したる所なり」と述べました。
伊藤博文の指摘したことに対して、高宗は反論できずに、伊藤博文ら日本側は交渉を続け、韓国側は納得して第二次日韓協約を締結したのです。
第二次日韓協約締結を、高宗は納得どころか満足していました。
暫くあつて李内相、李宮相出来り、陛下は該修正案を満足に思召し裁可を与えらるるへきの処、今一箇条陛下の御希望として、韓国か富強を致し其独立を維持するに足るの実力を蓄ふるに至らは此条約を撤回する旨の字句を挿入せんことを特に大使に懇望せらるるとの御沙汰に基き、大使は聖意を満足ならしむる為め自ら執つて協約書の前文中に『韓国の富強の実を認むる時に至る迄』の文字を加へ、再ひ李内相、李宮相をして聖覧に供せしめたるに、陛下は特に満足の旨仰せあり。
「伊藤特派大使日韓新協約調印始末」(日本外交文書)
「伊藤特派大使日韓新協約調印始末」(日本外交文書)
韓国の妄想に付き合うとして、韓国のために殉じられた方々を祀る顕忠院(靖国神社)に韓国大統領らが参拝しても、日本は抗議すらしません。
これは世界共通認識であり、また、当時は韓国国民だった日本人も祀られている(靖国神社には朝鮮人も祀られている)からです。
稲田朋美行政改革担当相は28日、靖国神社を参拝しました。
第2次安倍内閣の閣僚の参拝は麻生太郎副総理らに続き4人目であり、また韓国は日本を非難するでしょう。
韓国の国会が閣僚靖国参拝と安倍首相の発言を糾弾する決議を採択しましたが、韓国の国会議員は「日韓国交断絶」を韓国政府に要求するべきです。
良識ある日本国民の皆様、韓国についてご考慮下さい。
日韓断交に賛成!
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