昭和17年6月9日、オーストラリアのシドニー近郊ロックウッド・ク リマトア斎場で海軍葬が挙行された。弔われるのは豪州の軍人 ではなく、敵国日本の海軍軍人4人でした。
5月31日、特殊潜行艇3隻がシドニー港に潜入し、軍艦ク タバルを魚雷で撃沈したが、それぞれオーストラリア海軍の砲 撃、爆雷、防潜網などにより、沈没した。オーストラリア海軍 は、日本軍人の勇気に感銘を受け、引き上げられた2隻の4人 を海軍葬の礼をもって弔うことにしたのです。
葬儀の模様は、オーストラリア全国にラジオ放送された。
葬儀の模様は、オーストラリア全国にラジオ放送された。
敵国軍人への海軍葬に対 して非難の声もあがっていたのです。 しかし、海軍葬を進めたシドニー地区海軍司令官ムアヘッド・グール ド少将は6月下旬に、戦時公債募集応援演説に立ったとき、海 軍葬を執り行った理由に言及しました。この演説は全国に放送され て、大きな感銘を呼びました。
私は敵国軍人を海軍葬の礼をもって弔うことに反対する 諸君に聞きたい。
勇敢な軍人に対して名誉ある儀礼をつく すことが、なぜいけないのか。勇気は一民族の私有物でも なければ、伝統でもない。これら日本の海軍軍人によって 示された勇気は、誰も認めるべきであり、一様に讃えるべ きものである。このように鉄の棺桶に乗って死地に赴くに は、最高の勇気がいる。これら勇士の犠牲的精神の千分の 一でも持って、祖国に捧げるオーストラリア人が、果たし て何人いるであろうか。
オーストラリアの首都キャンベラ市の南郊エインスライ山中 腹にオーストラリア戦争記念館があります。
わが国の靖国神社にあたる施設です。
館内の青銅の壁には、 戦死者10万2千名の名前が彫り込まれています。
記念館の中には、搭乗員・松尾敬宇(けいう)中佐(戦死後、 大尉から特進)の搭乗帽や腹に巻かれていた千人針が展示され ている。千人針とは白または黄色のさらし布に、赤糸で一針ず つ千人の女性が縫う。その千人針には「祈武運長久」とあり、 松尾中尉の家族の名前が墨ではっきり書かれていた。 松尾中佐らの乗った潜行艇は軍港の奥深くに進入したが、豪 海軍による爆雷攻撃で身動きがとれなくなったため、艇を自沈 させ、拳銃で自決したのです。その時に腹に巻いていた千人針は上記画像にもありますが、松尾 大尉の血に染まっていたのです。
松尾敬宇(けいう)中佐
時は流れて昭和38年10月、戦争記念館・マックグレース館長は熊本 在住の松尾中佐の遺族へのつてを得て、「ご子息の遺品は潜行 艇とともに大事に保管してあります」という手紙を送りました。 手紙を受け取った松尾大尉の母(冒頭の画像)まつ枝刀自(とじ、年配の 女性への敬称)は、その時に次の歌を詠まれた。
吾子(あこ)の香(か)の移りし布のしのばれて温めずや と待ちにしものを
まつ枝刀自は『大東亜戦争を見直そう』の著者・名越二荒之助(なごしふたらのす け)氏に次のように語りました。
この歌を作りながら、出撃の前夜、26歳の我が子を抱 いて寝た時の思いが去来してどうすることもできませんで した。もう一度でよいから、「吾子の香の移りし布」を抱 きしめて寝てみたいと思いました。
昭和40年7月、マックグレース館長は来日し、松尾家を 訪問、松尾敬宇中佐の墓にも詣でた。まつ枝刀自は酒好きな 我が子のために、特産の地酒を持ち帰って、記念館にある潜行 艇に供えて欲しい」と願い出た。 館長は快く引き受け、帰国後、地酒を特殊潜行艇に注ぎ、松 尾中佐らの冥福を祈ったのです。
九州大学名誉教授の松本唯一博士は、昭和39年、地質学の 研究でオーストラリアを視察したが、その際に戦争記念館に立 ち寄り、そこで潜行艇と松尾中佐の遺品を見て、母堂のオー ストラリア訪問を実現させたいと決心し、78歳の高齢にも関 わらず、資金集めに乗り出した。自分の家屋敷を売り払い、そ の美挙に心打たれた教え子や旧海軍関係者など2,452名も の人々が志を寄せて、408万円が集まった。
こうして昭和43年4月、80余歳のまつ枝刀自、松尾中佐 の実姉・佐伯ふじさん、松本博士の3人がオーストラリアに向 けて出発した。この時の刀自の歌。
とつ国(外国)のあつき情けにこたえばやと老いを忘れて いさみ旅立つ
オーストラリアの新聞は、この歌を翻訳して、「勇者の母」 を連日にわたって大きく報道。そしてシドニーでの模様を 次のように伝えた。 28日シドニーに着いた一行は、オーストラリア海軍、 日本総領事館代表の暖かい歓迎を受けた。29日朝オース トラリア海軍のランチで湾内を見学、当時特殊潜行艇が沈 んだあたりで、付き添いの松本教授が和歌を朗詠、まつ枝 さんが花束と日本酒と色紙を海中 に投げ入れて慰霊した。 松本博士の朗詠した和歌は、まつ枝さんの次の2首である。
みんなみの海の勇士に捧げばやとはるばるもちしふるさと の花
花を追う色紙波間にみえかくれいつかは六つの霊に届かむ
刀自は我が子だけでなく、3艇6人の慰霊に来たのでした。 その後一行はシドニーの中心部にある戦争祈念碑に花束を捧 げ、オーストラリア軍の英霊に長い間黙祷を捧げたのです。沿道を埋 めた人々から割れるような拍手と、「なんという健気な母親だ」 という声があがり、進み出て握手を求める女性もいたのです。
吾子(あこ)の香(か)の移りし布のしのばれて温めずや と待ちにしものを
まつ枝刀自は『大東亜戦争を見直そう』の著者・名越二荒之助(なごしふたらのす け)氏に次のように語りました。
この歌を作りながら、出撃の前夜、26歳の我が子を抱 いて寝た時の思いが去来してどうすることもできませんで した。もう一度でよいから、「吾子の香の移りし布」を抱 きしめて寝てみたいと思いました。
昭和40年7月、マックグレース館長は来日し、松尾家を 訪問、松尾敬宇中佐の墓にも詣でた。まつ枝刀自は酒好きな 我が子のために、特産の地酒を持ち帰って、記念館にある潜行 艇に供えて欲しい」と願い出た。 館長は快く引き受け、帰国後、地酒を特殊潜行艇に注ぎ、松 尾中佐らの冥福を祈ったのです。
九州大学名誉教授の松本唯一博士は、昭和39年、地質学の 研究でオーストラリアを視察したが、その際に戦争記念館に立 ち寄り、そこで潜行艇と松尾中佐の遺品を見て、母堂のオー ストラリア訪問を実現させたいと決心し、78歳の高齢にも関 わらず、資金集めに乗り出した。自分の家屋敷を売り払い、そ の美挙に心打たれた教え子や旧海軍関係者など2,452名も の人々が志を寄せて、408万円が集まった。
こうして昭和43年4月、80余歳のまつ枝刀自、松尾中佐 の実姉・佐伯ふじさん、松本博士の3人がオーストラリアに向 けて出発した。この時の刀自の歌。
とつ国(外国)のあつき情けにこたえばやと老いを忘れて いさみ旅立つ
オーストラリアの新聞は、この歌を翻訳して、「勇者の母」 を連日にわたって大きく報道。そしてシドニーでの模様を 次のように伝えた。 28日シドニーに着いた一行は、オーストラリア海軍、 日本総領事館代表の暖かい歓迎を受けた。29日朝オース トラリア海軍のランチで湾内を見学、当時特殊潜行艇が沈 んだあたりで、付き添いの松本教授が和歌を朗詠、まつ枝 さんが花束と日本酒と色紙を海中 に投げ入れて慰霊した。 松本博士の朗詠した和歌は、まつ枝さんの次の2首である。
みんなみの海の勇士に捧げばやとはるばるもちしふるさと の花
花を追う色紙波間にみえかくれいつかは六つの霊に届かむ
刀自は我が子だけでなく、3艇6人の慰霊に来たのでした。 その後一行はシドニーの中心部にある戦争祈念碑に花束を捧 げ、オーストラリア軍の英霊に長い間黙祷を捧げたのです。沿道を埋 めた人々から割れるような拍手と、「なんという健気な母親だ」 という声があがり、進み出て握手を求める女性もいたのです。
5月1日、一行はキャンベラに飛び、戦争記念館を訪れた。 マックグレース氏の後任、ランカスター館長が出迎え、芝生 に安置している特殊潜行艇に案内した。松本博士はその時の 様子を次のように記しています。 刀自はカメラの放列の中を静かに艇に近づいた。なかに は仰向けになってまで刀自の顔をとらえようとするカメラ マンもいる。 私は刀自の手をとって共々一歩一歩足を運んでいるうち に、刀自の五体の震い戦(おのの)きが私の体に伝わって くる。ブルブルとうち震ふ右手は恐る恐る艇に近づき、一 指も触れてはならぬいとも尊きものに対してかの如く、触 れんとして触れず、辛くも触れては艇を愛撫された。 先ず外側を一周し、切断された処をS字型に曲がって潜 望鏡の真下、恐らくは松尾艇長が座っていたであろう箇所 を、刀自はしみじみと眼を見張られた。葉親会からの可愛 い花輪と菊池の神酒は、そこに供えられた。
その時の刀自の歌。
愛艇に四つのたましい生き生きて父をよぶこゑ母をよぶこ ゑ
刀自は名越氏に「艇を撫でておりましたら、本当に奥の方か ら、お父さん、お母さんという声が聞こえてきました。それを そのまま書きました」述べています。
続いて、記念館に入ると、松尾艇長が最期まで腹に巻いてい た千人針が差し出された。その様子は居合わせた人によって次 のように描写されている。 館長がまずまつ枝さんを椅子に座らせ、静かに千人針を 抱かせた。白木の額ぶちに納められた、それは血染めの千 人針だった。および腰でその額を握ったまつ枝さんは、小 刻みにふるえ、椅子の中で大きく揺れた。 千人針の上にポタポタと涙が落ち、椅子から転げ落ちそ うになって、館長の手にしがみつく。カメラマンたちの、 シャッターを切る音がとだえた。静まり返ったその一室で、 まつ枝さんを抱きしめている館長の嗚咽が、耳朶(じだ) を打った。・・・ 当時豪州海軍が行った葬儀のとき、弔銃を射ちはなつ 12名の水兵の右翼で、ラッパを吹奏したという、一人の 元水兵が訪ねてきた。彼はまつ枝さんの頬に熱い口づけを し、両手をおし頂くようにしてから、松尾艇の勇気をほめ たたえた。
5月2日には海軍省にスミス幕僚長を訪ね、続いてゴートン 首相とも会談した。刀自は「豪州海軍が戦争のさ中に、わが戦 士に示された行為は、英国騎士道の発露であり、心から感謝し ます」と挨拶した。 幕僚長は「それ(海軍葬)は、日本人が示した勇敢さに対す る当然の義務です。それにしてもはるばる訪豪されたお母さん の勇気に、改めて敬意を表します」と答えた。 続いて、ゴートン首相は「お母さんは、立派な子息を持たれ て、うらやましい気がします。あなたのお子さんは我々オース トラリア国民に、真の勇気とは何であるか、真の愛国心とは何 であるかを、身をもって示してくださった。心からお礼を申し 上げます」と述べた。 続いて行われた記者会見では、ある若い記者が「お母さんは 最愛の子供を失ってさぞ淋しいでしょう」と述べた。刀自は 「日本では国に忠義をつくすことが本当の親孝行になるのです。 私の子供は大きな孝行をしてくれました。すこしも淋しいとは 思いません。心から満足しています」と答えた。 武人の母としての言である。しかし、最愛の息子を失った時、 刀自は次の2首を詠んでいる。
君がため散れと育てし花なれど嵐のあとの庭さびしけれ
靖国の社(やしろ)に友と睦むとも折々かへれ母が夢路に
5月8日、一行は羽田空港に帰着した。空港には松尾中佐の 同級生や郷土の知人ら約50人が出迎えた。まつ枝刀自は空港 特別待合室で、額に入った血染めの千人針を披露した。そして、 次の歌を読み上げて、声をつまらせた。 三十年(みそとせ)の長き願ひのお礼ごとはたして安しけ ふの喜び 刀自一行の旅は、オーストラリアでは全国的な称賛と感動で 迎えられたが、日本ではほとんど黙殺されたのです。
あるテレビ局が 刀自に取材に来た時に、事前打ち合わせで「お母さん、取材の 途中で何を言われてもよりしいが、最後は戦争は嫌だ、という 言葉で結んでください」と頼んだ。 刀自は「戦争が好きな者はいません。しかし外国から無理難 題をいわれれば、やらなければならない場合もあります」と答 えて、テレビ局の依頼を断ったのです。刀自は後に「戦争がいやだと いうだけで、日本が護れましょうか」と語っています。
昭和55年1月23日、95歳になっていた刀自はベッドか ら起きあがると、孫の松尾和子さんに、紋付きの羽織を出して 貰いたいと頼んだ。羽織を着ると、「どうやらお迎えがきたよ うだ」と言い、手をついて長い間世話してくれた松尾さんにお 礼の言葉を述べられた。そして横になるとそのまま深い眠りに入り、 翌24日未明、永眠した。最期まで武人の母としての凛とした 生涯でした。
参考文献 名越二荒之助『大東亜戦争を見直そう―アジア解放の理想と花 開く武士道物語』