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昭和11年の二・ニ六事件で青年将校として連座した小川三郎という熊本男児がいました。まったく語られることのない日本男児をこのまま消すのは惜しいと思い、「輝かしい日本の発掘」としてここに記しておきます。
大東亜戦争でシンガポールが陥落する直前、タイのバンコクに岩畔機関(いわくろきかん)という特務機関が出来ました。この機関はインド義勇軍を組織して対インド独立工作を進めるというのが主な任務でした。
その機関員に小川三郎という少佐が配属されてきました。
機関長の岩畔豪雄大佐がその考課表を見ると、
「陸士第三十八期生卒業 序列が尻から二番目二・二六事件に連座して停職六カ月」
という豪の者で、機関長はどんなポストに使うべきか一寸迷っていました。
ある晩、夕食のとき、機関長は単刀直入に小川少佐に聞いてみました。
「君は陸士の卒業序列が尻から二番だがあまり勉強しなかったんだろう」と言うと、
小川少佐はすかさず「実に残念でたまりません」と答えた。
機関長はてっきり勉強もしてみたが不成績に終わって残念だという風に、ごく普通の解釈をした。ところがそうではなかったのです。
「私は陸士卒業の時、ぜひビリで卒業したいと努めたが、惜しくも念願がはずれて、尻から二番に止まり実に残念無念でした。ビリの卒業というのはなかなか難事中の難事ですね」と笑って答え、さすがに剛腹の機関長も呆気にとられたといいます。
大東亜戦争が進んでインドの志士チャンドラ・ボースをドイツから迎えてインド義勇軍の首領とし、小川中佐はその連絡に任じていました。
当時、インパール作戦後のビルマの日本軍は戦勢利あらず、後退に後退を重ねていました。サルウィン河畔に踏みとどまっていたチャンドラ・ボーズに対し小川中佐は言いました。「早く後方の国境山脈まで退られよ」と。
しかし何といっても聞き入れぬので、これ以上やせ我慢すべきではないと諌めた。
するとボースは言いました。
「約100名の女子義勇軍をラングーンに残していながら男の自分だけがどうしておめおめ後退できるか」
小川中佐はこれに応じて、
「わかった。私も日本人だ。日本軍人だ。誓って私が責任を以て女子義勇軍を救出し、貴方の膝下に連れ帰るから安心して後退せられよ」、と言うなり方面軍の後方担当参謀のところにやって来て、
「最小限4台のトラックを融通してくれ」と頼みこみました。参謀は「1台もない」と言う。
何とか工面してくれと迫ったが「ない袖は振れぬ」と言う。
小川中佐は厳然として、
「ない袖を振るのが参謀の真の役割だ。ある袖を振るのなら誰でもできる」
続いて言った。
「自分はインドのボース首領に誓ったのだ。ラングーンに残された女子義勇軍は日本人の面目にかけても断じて救出すると。今度の大戦はあるいは敗戦の破局を迎えるかもしれぬが、たとえどんな、どん底に陥っても日本人は嘘をつかなかった。どんな逆境に立っても日本の軍人は最後まで信頼できるとのイメージをインドの人たちに残して死にたい。
形の上の戦争ではたとえ敗れても心の上の戦争では敗れておらぬ証拠を世界の人々に示すべき絶好の機会だ。4台のトラックはこのため何とかしてくれ」
と熱情をこめて言い放ったのです。
黙々としてその言葉を聞いていた参謀は何も言わず、どこからか4台のトラックを工面してきました。
小川中佐は喜んでこれを受け取るとまっしぐらに包囲化の首都に駆けつけて無事、女子義勇軍約80名を救出し、ボース首領の手元に連れてきました。
その後、小川中佐は南ビルマの戦闘で戦死した。インパール作戦はまれにみる凄惨な戦いでありました。退却の戦闘で最も困難とされるのは「しんがり部隊」の行動です。その困難である「しんがり」を自ら買って出たのが小川でした。
退却する友軍を安全な地帯まで後退させるため、小川は幾多の困苦欠乏に耐え、
苦心惨憺の結果、その任務を十分に果たし得たのです。
もうこれで大丈夫、と思われる地点までたどり着いた時、小川は突然、踵(きびす)を返して、今来た方向に逆行して、ついに消息を絶ってしまいました。
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二・二六事件に連座した大蔵栄一氏は著書『二・二六事件への挽歌』でこのように書いています。
「私達の同窓にこんな誇り高い男がいたと言うだけでも肩身の広い感じがする。
たとえ日本の陸軍が滅びても、また熊本幼年学校はなくなっても、こんな物語だけは後の世にぜひ残しておきたいものである。日本の中にこんな考えの男がいたことを永久に残したいものである。」
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