後桃園天皇崩御で皇統の危機
さらに時代が下ることおよそ360年、三度目の皇統断絶の危機が訪れた。
江戸時代後期の安永8年(1779)10月29日、皇室は皇祖以来最大の
江戸時代後期の安永8年(1779)10月29日、皇室は皇祖以来最大の
困難に直面する。系譜上第一一八代に数えられる後桃園天皇が崩御したこの日、
天皇が不在となったのだ。
本来であれば天皇の在位中に皇太子が立てられ、天皇崩御の日か、その翌日に
皇太子が践祚して皇位が継承されるはずであった。しかし、後桃園天皇は幼い
欣子(よしこ)内親王(後の新清和院(しんせいわいん))一人を残して22歳と
いう若さでこの世を去ったため、皇太子となるべき皇子がいなかった。
そのうえ、天皇の近親に皇族男子が一人もいなかったため、皇位継承者不在の
まま天皇崩御となり、空位が生じるに至った
〔本書では現代の感覚でとらえることができるように、年齢を表記するときには
〔本書では現代の感覚でとらえることができるように、年齢を表記するときには
数え年を使わずに満年齢で表記することにした〕。
空位が生じることは、とうてい許される事態ではない。そしてこれをこのまま
放置すると、天皇家を断絶させることになる。このとき、空位を避けるために
後桃園天皇の崩御はしばらく黙されることになり、その間にさまざまな策が
検討された。朝廷において判断に苦慮した場合、常に先例を参考にしてきた
ことは既に述べたが、このときも、およそ2000年以上続く歴史を辿(たど)って
皇位継承に関する先例調べが行なわれた。
既に説明した継体天皇と後花園天皇の二例が最も参考にされたことは言う
までもない。この時代、徳川幕府は絶大なる権力を持っており、皇太子を
立てるにも幕府の承認を得る必要があった。朝廷は後桃園天皇がまだ存命で
あることにして、天皇の重体を伝え、世継ぎを誰にするか幕府と交渉を始めた。
男系維持へのこだわり
後桃園天皇が崩御したこのとき、天皇が残した子供は、崩御の年に生まれた
ばかりの皇女欣子内親王ただ一人だった。そのため、皇位継承の問題は深刻
化した。通常、皇子がいない状態で天皇が崩御すると、天皇の兄弟、叔父、
大叔父など、歴代天皇の男系の子孫が皇位を継承するのが通例となっていた。
後桃園天皇には弟の貞行(さだもち)親王〔「さだゆき」とも読む〕がいたが、
宝暦10年(1760)に伏見宮を相続した後、明和9年(1772)、既に
宝暦10年(1760)に伏見宮を相続した後、明和9年(1772)、既に
この世を去っていた。
そのうえ、後桃園天皇の父桃園天皇は既になく、その兄弟もいなかった。
もう一世代遡(さかのぼ)ると、桃園天皇の父、桜町天皇も既になく、
その兄弟四方のうち、公遵入道(こうじゅんにゅうどう)親王と忠誉入道
(ちゅうよにゅうどう)親王は健在であったものの、既に満57歳と満56歳と
いう高齢だった。
〔入道親王とは、親王宣下を受けた後に仏門に入った皇族のこと〕
〔入道親王とは、親王宣下を受けた後に仏門に入った皇族のこと〕
しかも二人は仏門に降って僧侶となっており、いずれにも皇子はいなかった。
つまり近親に皇位を継ぐことができる歴代天皇の男系の男子が一人もいなかった
のである。
続く
竹田 恒泰 著 「皇族たちの真実」より
つまり近親に皇位を継ぐことができる歴代天皇の男系の男子が一人もいなかった
のである。
続く
竹田 恒泰 著 「皇族たちの真実」より