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Channel: 電脳工廠・兵器(武器,弾薬)庫
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[転載]奴隷と人種排除-3

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続きです。


923年の関東大震災では、ある黒人が
「シカゴ・ディフェンダー」紙に「アメリカの有色人種、
つまり我々黒人こそが、同じ有色人種の日本人を
救えるのではないか」と投書します。

それを受けて同紙はすぐに日本人救済キャンペーンを始めた。
「確かに我々は貧しい。しかし、
今、お金を出さなくていつ出すというのか。」

同紙の熱心な呼びかけは、多くの黒人の間に浸透していきます。

万国黒人地位改善協会は、
「同じ有色人種の友人」である天皇に深い同情を表す電報を送り、
また日本に多額の寄付を行った。

「シカゴ・ディフェンダー」紙のコラムニスト、
A・L・ジャクソンは、長い間白人達の専売特許だった
科学や商業、工業、軍事において、
飛躍的な発展を遂げようとしていた日本が、
震災で大きな打撃を受けた事により、
黒人もまた精神的な打撃を受けた、と分析しました。

なぜなら「日本人は、それまでの白人優位の神話を
崩した生き証人」だったからだといいます。

1936年、イタリアがエチオピアを侵略します。
アメリカの黒人達は、アフリカ唯一の黒人独立国を
「最後の砦」として支援しようとします。
アメリカ政府の消極的な姿勢に比べて、
日本が国際連盟以上にエチオピア支援を訴えた事が、
アメリカの黒人達の心を動かしたのです。

「シカゴ・ディフェンダー」紙は、日本の宇垣一成大将が、
「イタリアとエチオピアの争いでは、
日本は中立になる訳にはいかない」
「エチオピアの同胞を助ける為には、いつでも何千という日本人が
アフリカに飛んでいくだろう」と明言した事を伝えています。

また「ピッツバーグ・クリア」紙は、エチオピアに特派員を送り、
エチオピア兵が日本でパイロット訓練を受けた事、
戦闘機の提供まで
日本が示唆していた事を特ダネとして報じました。

そして何よりも黒人たちを感激させたのは、
エチオピアのハイレ・セラシェ皇帝の甥、
アライア・アババ皇太子と
日本の皇族・黒田雅子女史の結婚の計画です。

これは実現には至らなかったものの、
日本がエチオピアとの同盟関係に
関心を寄せていた証拠でもありました。

シカゴ・ディフェンダー紙は、「海を越えた二人の恋は、
ムッソリーニによって引き裂かれた」と報じています。

「20世紀の日本人-アメリカ黒人の日本人観」の著者、
レジナルド・カーニー博士(黒人史専攻)は
次のように我々日本人に呼びかけています。

「歴史上、日本人が持ち得た最も親しい友人、
それがアメリカ黒人だった。
・・・この本を読んでいただければ、
日本の政治家や知識人達が
黒人を差別する発言を繰り返した時に、
なぜ黒人があれほどまでに怒り悲しんだかを、
心から理解してもらえるはずである。」

パリ講和会議における日本の提案は、
当時の白人社会にはとてつもなく大きな爆弾であったといえます。

国富の大部分を、人種差別と植民地政策によって
得ていた欧米資本家や貴族達にとって、
植民地を失うという事は、即ち国家の崩壊であり、
資産家達の破産を意味するものでもあったのです。

それだけに、人種差別撤廃を堂々と主張する日本は、
彼らにとって、どうしても許す事のできない相手でした。
そしてパリ講和会議での日本の「人種差別撤廃法案」は、
16カ国中、11カ国の賛成を得ながらも、
議長であった米国大統領ウィルソン
「全会一致でない」という詭弁によって退けられてしまったのです。

怒った全米の黒人達は、
全米で数万人もの負傷者を出す程の
大規模な暴動を続発させています。

日本の主張した「人種差別撤廃」の主張は、
単に日本人が欧米と対等につきあえる事を
願ったというだけでなく、貧しく、
差別された世界中の人類が、肌の色を越えて
「四方の海はみなはらから」なのだという
陛下ご自身のお気持ちが国民の意思、
国家の意思となったものに他なりません。

けれど、米国の黒人差別は、その後も長く続きました。

パラオ、アンガウル島の玉砕戦を
生き残った舩坂弘さんが書いておられるのだけれど、
米軍の攻め方というのは、
始め艦砲射撃やら航空機からの爆弾投下で、
徹底的な爆弾による破壊を試みる。
そして上陸して日本軍の弾の当たる所に最初に出てくるのは、
いつも決まって「黒人歩兵部隊」だったといいます。

戦争ですから、先頭にたつ歩兵は撃たれます。
そして先頭の部隊が撃たれる事で、敵の居場所がわかる。
わかったら、そこを(弾の飛んで来ない)艦船から、
艦砲射撃で攻撃する。
そして日本軍の弾が飛んでこなくなる頃になってやっと、
白人の掃討部隊が前線に出て来る。
それが当時の米軍の戦い方でした。

テレビや映画等では、実際のこういう姿は、まず出てきません。
白人の兵隊が勇敢に銃を撃ち、
日本軍と戦っているというようなシーンしか出てきません。
けれど、実際の戦闘では、常に敵弾の届く危険な所には、
黒人兵が狩り出されています。


真珠湾攻撃の総指揮官だった淵田美津雄大佐は、
自伝で次のように述べています。

終戦直後のある日、3人の大柄な黒人兵がやってきた。
そしていきなりジープに乗れと言った。
相手は武装した黒人兵、こちらは丸腰です。
生きて帰れないと覚悟した。

淵田大佐は、こうして30分ほどジープにゆられ、
丸の内の郵船ビルの裏手に連行されます。

その頃郵船ビルは、
米軍将校たちの宿舎に充てられていたのだそうです。
そしてビル内には、
米軍の白人将校向けのバーまでしつらえてあった。

淵田大佐を連行した黒人兵達は、
そのバーで働かされている兵隊だったのだそうです。

バーの楽屋裏に連れ込まれた淵田大佐は、
そこに集まった大勢の米軍黒人兵達から大歓迎されている。
食いねえ、飲みねえ、と、
それはそれはたいそうな歓迎だったのだそうです。

そした彼らは異口同音に言った。
「真珠湾攻撃を誰が一番喜んだと思う?」
「それは、われわれ黒人だよ」

当時、米軍兵士と日本人との交流は
米軍内で固く禁止されていました。
その禁を破ってまで、彼ら米黒人兵達は
淵田大佐を真珠湾攻撃隊長と知って、大歓迎したのです。

日本が行った大東亜戦争というものは、
極力平和的手段の限りを尽くして人種の平等、人類の平和と、
人種と民族の独立自尊と共存共栄を図ろうとしてきた日本が、
人種差別絶対の世界の中で、嬲られ、痛めつけられ、
万やむを得ず、乾坤一擲の大勝負を挑んだ戦いでした。

強力な日本軍というイメージが先行している昨今ですが、
確かに日本は強かったけれど、その戦いは、
常に日本の10倍、20倍、
しかも圧倒的な火力を持った諸国を敵に回しての戦いでした。

そしてこの日本が行った勇気ある戦いによって、
戦後、次々とかつての植民地であった民族が独立し、
国家を形成するようになり、そしてその動きが、
米国内においても黒人たちの公民権獲得運動へと繋がり、
結果として、二十一世紀になって、
黒人の米国大統領が誕生するに至ったわけです。

いいかえれば、黒人のオバマ氏が
米国の大統領となったという背景には、
高らかに人種の平等を掲げた、
明治天皇、大正天皇、昭和天皇、
そして今上陛下に至る我が国ご皇室と、
そのご皇室をお守りせんとして
勇敢に戦った日本という国家の存在にいきつくからです。

だからこそオバマ氏は、米国大統領として、
そして人類を代表する思いで、あの挨拶をしたのでした。

その時韓国は、
天皇に90度の最敬礼をとったオバマ大統領は、
韓国ではきっと「三跪の礼」をとって
挨拶してくれるに違いないと勝手な妄想にふけったようだけれど、
そういう下品な感性しかもたないから、
韓国人も韓国も、世界から嫌われるのです。

そしてこの事は、
私達日本人に対してさえも、強力な自省を促します。
なぜなら、我々日本人が、このまま韓流ごり押し、
売国メディアや日教組の反日偏向教育等によって、
我々自身の民度を下げた時、我々日本人もまた、
昨今の韓国人や、
世界中で総スカンを食っている反日支那人同様、
「見下げ果てた民族」とみられるようになってしまうからです。

未来は、過去と現在の延長線上にあります。
我々現代人は、父祖の勇気と信義あふれる行動によって、
戦後67年の平和と、豊かな暮らしを手に入れる事ができました。

けれどこのままでは、私達現代人は、
未来を担う子や孫の生きる未来に、
誤った歴史観で反日を刷り込まれ、
民族としての自覚もアイデンティティを失った、
奴隷というより、ゾンビとして生きるしかない、
貧しい未来を与える事になってしまいます。

人は変わる事ができます。
国家もまた、人によって構成されているものである以上、
人によって変える事ができます。

日本を取り戻す。
それは、私達が、私達の祖国のアイデンティティを
取り戻す戦いであると、私は思っています。




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転載元: 中川昭一氏のような保守を支持します&♡ ときめく人達♡


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