東條英機暗殺計画があった。
昭和19年(1944年)5月、大東亜戦争の戦局が悪化してくると東條内閣にかげりが見えてきます。岸信介国務相(軍需次官 戦後、内閣総理大臣)は東條英機に対し「軍需産業に責任を持っている次官の立場から言うと、サイパンが取られればどうにもなりません。B-29が連日空襲をかけてくれば、大都市の軍需産業は壊滅してしまうという、現実の問題ですから」と述べます。岸は東條内閣を見限っていました。
海軍では東條英機暗殺計画が持ち上がります。倒閣へ向けた正攻法を用いなかったのは、嶋田海軍相が東條英機と懇意であるのと、東條英機の憲兵を使った強引な手法、戦局悪化のあせりと思われます。高木惣吉海軍少将、神重徳大佐、三上卓元海軍中尉らが暗殺計画を練り、7月14日を決行の日とします。ところが、神重徳大佐が連合艦隊参謀として転出することになり、さらに7月7日にサイパンが陥落。東條内閣更迭が現実味を帯びてきたため、計画を中止することになりました。
陸軍内でも暗殺計画がありました。大本営参謀の津野田知重少佐が中心となって暗殺計画をたて、決行日は7月25日となっていました。東條英機が乗ったオープンカーを襲撃して手榴弾を投げる予定でした。計画は山形に隠遁していた石原莞爾に持ち込まれ、献策書を読んだ石原は「総理にする人間を誤らないことだね」と答え、献策書の表紙に「全然同意す」と記しました。さらに計画は大本営参謀の三笠宮に持ち込まれ賛同を得ました。秩父宮にも持ち込まれ「後継者は小畑敏四郎(陸軍中将)がいいだろう」と賛同しました。しかし、陸軍は東條英機の守備範囲内だったため情報は漏れ、計画者は逮捕されました。
このほか陸軍の参謀本部戦争指導班の松谷班長は正攻法で東條英機に直接進言しています。
「7月1日 午後より市谷分室において班長以下昭和20年春季頃を目処とする戦争指導に関する第一案を研究す。今後逐次『ジリ』貧に陥るべきを以って、速やかに戦争終結を企図するの結論に意見一致せり」(戦争指導班の日誌)
しかし、松谷班長は、すぐ前線へ飛ばされます。陸軍省の戦備課の主任だった塚本大佐も東條英機に面会を求め終戦を説得したため突然グアムに飛ばされ、戦死してしまいます。
この状況に重臣らは危機感を募らせ、近衛、岡田、若槻、米内、阿倍、広田が平沼邸に集まり、東條不信任の結論を出し、東條英機に伝えます。岸信介の離反とこの重臣会議の結論により、東條英機は7月18日総辞職を奉上し、東條内閣は瓦解しました。
東條英機は親しい人には本音を漏らしていましたが、昭和18年頃にこんなことを言っています。
「戦というものはね、山の上から大石を転がすようなものだ。最初の50センチかせいぜい一メートルぐらい転がったときなら、数人の力でとめることもできるが、二メートルさらに五メートルとなれば、もう何十人か何百人かで止めなければとめることは出来ない。それ以上になれば結局谷底まで、行き着くところまで行かねば始末はつかないんだよ」
「戦というものはね、山の上から大石を転がすようなものだ。最初の50センチかせいぜい一メートルぐらい転がったときなら、数人の力でとめることもできるが、二メートルさらに五メートルとなれば、もう何十人か何百人かで止めなければとめることは出来ない。それ以上になれば結局谷底まで、行き着くところまで行かねば始末はつかないんだよ」
この後、小磯内閣が誕生し、講和論が台頭してきますが、レイテ決戦で大失敗し、時期がつかめず、東條英機の言葉どおり、坂道を転がることを止めることは容易ではありませんでした。後に鈴木貫太郎、阿南惟幾による策略によって大きな力を引き出し、谷底寸前で止めることになります。
参考文献
角川学芸文庫「東条英機」太田尚樹(著)
中公文庫「われ巣鴨に出頭せず」工藤美代子(著)
角川学芸文庫「東条英機」太田尚樹(著)
中公文庫「われ巣鴨に出頭せず」工藤美代子(著)
添付画像
東條内閣 昭和16年10月18日(PD)
東條内閣 昭和16年10月18日(PD)