新渡戸 稲造(にとべ いなぞう)氏、(文久2年8月8日) - (昭和8年)10月15日)は、クラーク博士の下で学んだ日本の農学者・教育者・倫理哲学者でした。
国際連盟事務次長も務め、著書 ''Bushido: The Soul of Japan''(『武士道』)は、流麗な英文で書かれ、長年読み続けられています。日本銀行券のD五千円券の肖像としても知られています。
国際連盟事務次長も務め、著書 ''Bushido: The Soul of Japan''(『武士道』)は、流麗な英文で書かれ、長年読み続けられています。日本銀行券のD五千円券の肖像としても知られています。
拓殖大学名誉教授でもある。
岩手県盛岡市に盛岡藩士で、藩主南部利剛の用人を勤めた新渡戸十次郎の三男として生まれた。
岩手県盛岡市に盛岡藩士で、藩主南部利剛の用人を勤めた新渡戸十次郎の三男として生まれた。
氏がなぜそれほどまでに幅広く、しかしながら力強い活動をすることができたのか。それは、人生の奥底に日本人として「ぶれないもの」が存在していたからです。
''Bushido: The Soul of Japan''つまり『武士道――日本の魂』が新渡戸氏の魂そのものであったからです。
新渡戸氏は、本書で武士道こそ日本人の道徳の基礎にあるものだということを、欧米人に知らしめようとしたのです。
名著『武士道』で新渡戸氏は、武士道を詳細に論じています。まず新渡戸氏は、「武士道は、日本の象徴である桜花にまさるとも劣らない、日本の土壌に固有の華である」と説き起こし、武士道の淵源・特質、民衆への感化を考察しています。
新渡戸によると、武士道とは、多くの徳から成っているものです。以下、各項目から、内容の一部を抜粋し、概観します。
※「武士道の渕源」より~「武士道は『論語読みの論語知らず』的種類の知識を軽んじ、知識それ自体を求むべきで無く叡知獲得の手段として求むべきとし実践窮行、知行合一を重視した」
※「義」より~「義は武士の掟の中で最も厳格なる教訓である。武士にとりて卑劣なる行動、曲がりたる振舞程忌むべきものはない」
※「勇、敢爲堅忍の精神」より~「勇気は義の為に行われるのでなければ、徳の中に数えられるに殆ど値しない。孔子曰く『義を見てなさざるは勇なきなり』と」
※「仁、即惻隠(そくいん)の心」より~「弱者、劣者、敗者に対する仁は、特に武士に適しき徳として賞賛せられた」
※「礼」より~「作法の慇懃鄭重(いんぎんていちょう)は、日本人の著しき特性にして、他人の感情に対する同情的思い遣(や)りの外に表れた者である。それは又、正当なる事物に対する正当なる尊敬を、従って、社会的地位に対する正当なる尊敬を意味する」
※「誠」より~「信実と誠実となくしては、礼儀は茶番であり芝居である。…『武士の一言』と言えば、その言の真実性に対する十分なる保障であった。『武士に二言はなし』二言、即ち二枚舌をば、死によって償いたる多くの物語が伝わっている」
※「名誉」より~「名誉の感覚は、人格の尊厳ならびに価値の明白なる自覚を含む。… 廉恥心は、少年の教育において、養成せられるべき最初の徳の一つであった。『笑われるぞ』『体面を汚すぞ』『恥づかしくないのか』等は非を犯せる少年に対して正しき行動を促す為の最後の訴えであった」
※「忠義」より~「シナでは、儒教が親に対する服従を以って、人間第一の義務となしたのに対し日本では、忠が第一に置かれた」
※「武士の教育及び訓練」より~「武士の教育に於いて守るべき第一の点は、品性を建つるにあり。思慮、知識、弁論等、知的才能は重んぜられなかった。武士道の骨組みを支えた鼎足は、知・仁・勇であると称せられた」
※「克己」より~「克己の理想とする処は、心を平らかならしむるにあり」
以上のように、武士道は多くの徳によって成り立っており、高い精神性をもつものだったことを、新渡戸は解き明かしています。
武士道は本来、武士階級に発達したものでした。「だが」と新渡戸氏は書いています。武士道は「やがて国民全体の憧れとなり、その精神となった。庶民は武士の道徳的高みにまで達することはできなかったが、大和魂、すなわち日本人の魂は、究めるところ島国の民族精神を表すにいたった」。そしてそれが武士だけでなく、日本人全体の道徳の基礎となっていることを新渡戸氏は述べています。
明治以降の日本のリーダーたち、経済人やジャーナリストや教育者などには、武士道から理想や信念を学んだ人たちが、多くいます。武士道は姿形を変えて、日本人の生き方のなかに受け継がれてきたのです。また今なお、武士道は、日本人の道徳心や規範意識を支えているのです。
新渡戸氏は次のように述べています。
「武士道は一つの独立した道徳の掟としては消滅するかもしれない。しかしその力はこの地上から消え去ることはない。その武勇と文徳の教訓は解体されるかもしれない。しかしその光と栄誉はその廃虚を超えて蘇生するにちがいない。あの象徴たる桜の花のように、四方の風に吹かれたあと、人生を豊かにする芳香を運んで人間を祝福し続けるだろう。何世代か後に、武士道の習慣が葬り去られ、その名が忘れ去られるときが来るとしても、『路辺に立ちて眺めやれば』、その香りは遠く離れた、見えない丘から漂ってくることだろう」。
新渡戸稲造氏の『武士道』が発刊されて、はや百十年以上が過ぎました。新渡戸氏の言葉は、予言のようにも祈りのようにも響きます。
現代の日本では、武士道に現れたような道徳心は廃り、日本人から香り高い精神性は、消えうせたかに思われます。
武士道は、「日本の象徴である桜花にまさるとも劣らない、日本の土壌に固有の華」と新渡戸は述べました。そうした武士道の精神を忘れ去ってしまったならば、日本人は精神的に劣化していくばかりでしょう。
21世紀において、日本が大転換の時を迎えている昨今、後世の我々は、新渡戸氏の遺言にも似た言葉に耳を傾け、武士道に現れた精神的伝統を取り戻すべき時に立っていると思います。
新渡戸氏は国連事務局次長を終へて帰国後に昭和天皇の前でご進講を行ふなど、昭和天皇を深く尊敬し、昭和天皇からも絶大なる信頼を得ていました。昭和7年、満州事変後の日米の確執の中、七十一歳の新渡戸は昭和天皇のご意向を受けて、日本の立場への理解を広める為に渡米、約一年間全米を講演して回つています。
「国を思ひ 世を憂うればこそ 何事も 忍ぶ心は 神ぞ知るらん」
この歌は昭和7年に詠まれました。
また、昭和四年には、太平洋問題調査会の日本代表として、京都で開催された太平洋会議では、支那代表、徐博士の誹謗中傷に真つ向から異論を唱へ反発し、非公式の廊下は、支那代表の胸ぐらをつかんで激しく抗議したと言われています。一見温和で優しく紳士の代表の様な新渡戸氏でしたが、不正に対しては烈火の如く怒り、不正義を正す勇気を生涯貫かれました。
新渡戸氏が亡くなる昭和八年には陛下への御進講後の東京女子大での講演で新渡戸氏は次の様に語っています。
私は目のあたりお近く陛下にお接しする機会を得て、常に思うが、陛下は無私誠実、寛厚な御方で、このような天皇を戴いているのはまことに有り難い。日本人は日本のために、自分の持てる才能を生かして、国のため、世界のために尽すことがすなわち陛下に忠誠を尽すことであり、国民としての義務をはたすことでもある。私はいくら個人的に攻撃されたり、悪口を言われても、この陛下の為には、苦しい中にも張合さえ感ずる。
私は目のあたりお近く陛下にお接しする機会を得て、常に思うが、陛下は無私誠実、寛厚な御方で、このような天皇を戴いているのはまことに有り難い。日本人は日本のために、自分の持てる才能を生かして、国のため、世界のために尽すことがすなわち陛下に忠誠を尽すことであり、国民としての義務をはたすことでもある。私はいくら個人的に攻撃されたり、悪口を言われても、この陛下の為には、苦しい中にも張合さえ感ずる。
昭和八年八月、太平洋問題会議がカナダで開かれ、新渡戸は日本代表としてバンフに赴いた。新渡戸はその年三月に出された「国際連盟脱退の詔書」の中の陛下の御言葉を引用して、国際平和を希求し、友邦の誼を失わず、国際信義を重んじるとの陛下の大御心を説明した。
しかし、わが国の置かれた状況は好転しませんでした。
会議終了後、新渡戸は妻が待つヴィクトリア市に移動し、その地で病床に伏し、遂に十月十六日に亡くなりました。享年七十二歳でした。
病床での新渡戸氏の最期の言葉は次のものでした。
まだ、死ぬわけにはいかない。祖国への奉仕が終わってしまうまでは死ぬわけにはいかないんだ。と・・・・
病床での新渡戸氏の最期の言葉は次のものでした。
まだ、死ぬわけにはいかない。祖国への奉仕が終わってしまうまでは死ぬわけにはいかないんだ。と・・・・
孤高の潔白なる生き方と、全ての人に降り注ぐ慈愛の生き方の双方を併せ持つたのが新渡戸氏、まさにに武士の最後でした。