2013-01-14
江戸幕府は黒船が来ることを知っていた
かつて日本は美しかった誇りある日本、美しい日本へ
江戸時代は鎖国をしており、江戸幕府は海外事情に疎く、アメリカのペリー提督率いる黒船艦隊が突然現れて、幕府は仰天して右往左往した・・・黒船来襲はこのような認識を持っている人が多いのではないでしょうか。あと「異国船無二念打払令(いこくせんむにねんうちはらいれい)」というのを知っている人も多いでしょう。外国の船がきたら追い払うというものですが、軍事力の差を考えない無謀な策だったと思っている人も多いでしょう。実際幕府は無知無能だったのでしょうか。
「異国船無二念打払令」は文政8年(1825年)に発令されましたが、天保13年(1842年)には撤回され「天保薪水令」に切り替えていました。外国の船がやってきたら食糧や燃料を与えてお引き取りいただくという穏健な政策です。この政策の切り替えは「アヘン戦争」を知っていたからです。アヘン戦争はアヘンの密輸を原因とする清国とイギリスの間の戦争です。清国が敗北し、1842年に南京条約が結ばれました。この戦争で幕府はイギリス海軍の圧倒的軍事力を知り、とても武力で外国船を追い払えないことを知ったのです。これらの情報は長崎に入るオランダ船から「和蘭(オランダ)風説書」と清国の船より「唐風説書」というのを提出させて得ていました。
アヘン戦争という重大ニュースに際して、幕府はオランダ商館により詳細な「別段風説書」を提出させるようにしました。これらの情報源は支那南部の英字新聞です。イギリス側の視点になります。「唐風説書」は清国側の視点になります。両視点の情報を江戸幕府は分析していました。そしてイギリス海軍の強さを知り、海上封鎖によって首都北京の補給が断たれたことを知りました。これを日本にたとえて、もし、江戸湾が封鎖されたらと考えれば、人口100万の江戸は干上がってしまうことがわかります。当時、江戸への物資運搬の大半は海路だったのです。幕府は情報分析の結果、穏健策に切り替えたのでした。
幕府はこうした情報を分析し、国際法の論理を理解し、超大国イギリスはアジアを侵略しているいのに対し、アメリカは新興国であり、友好的に付き合える可能性があると判断していました。そして嘉永5年(1852年)、オランダ商館長にクルチウスが着任し、「別段風説書」が届けられました。これにアメリカが黒船艦隊を日本に派遣する計画が書かれていました。陸戦用の海兵隊も乗船しているとなっています。おそらく最新鋭のボンベカノン砲を備えているでしょう。時期はいつになるか?季節風の関係からするとやってくるのは来年の夏と予測しました。このときの老中首座は阿部正弘です。
「アメリカの事、二十二日(1852年12月3日)、辰(阿部のこと)へ参ったとき、いろいろのことを聞いた。夕刻にまた詳しく話を聞く予定である。・・・アメリカの事は彼の方(オランダ商館長)より聞いており、(老中は)よほど心配のご様子で、いまだ評議定まらない模様、近々また聞くことになろう」
老中首座・阿部正弘、いまで言えば内閣総理大臣です。わずか33歳(満)。阿部正弘は弱冠26歳にして老中首座となり、海岸防禦御用掛(海防掛)を設置して外交・国防問題にあたらせてきました。弘化3年(1846年)にアメリカ東インド艦隊司令官ジェームズ・ビドルが通商を求めて浦賀沖にやってきましたが、このときは鎖国を理由に拒否できました。しかし今度やってくるのは大艦隊という情報です。明らかな砲艦外交です。未曾有の国難にあたって、正弘がかねてから決していたのは「戦争回避」「交易の拒否」の二本柱でした。
参考文献
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