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Channel: 電脳工廠・兵器(武器,弾薬)庫
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[転載]祖国を後にはるばると 太平洋の浪枕・・・

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     回天には楠正成の家紋である「菊水」を用い、七生報国の精神を受け継ぎました。
 
嗚呼特別攻撃隊という悲しい歌があります。
「特攻」というと飛行機だけだと思われているかもしれませんが、海の「特攻」があったことを忘れてはいけません。
 
終戦直後、日本の陸・海軍代表がマニラに招致され、進駐に関する打ち合わせが開かれました。この時、米軍のサザーランド参謀長が真っ先に口にしたのは、
「回天(かいてん)はまだ海上に残っているか」、ということでした。
これに対し我が軍は「回天を積んだ潜水艦7隻が残っている」と言うと、
「それは大変だ、即刻降伏を伝達せよ」と促したといいます。
帝国海軍は昭和206月以降、回天が戦果を挙げていることは知っていましたが、アメリカ側がこれほど恐れていたとは日本側もびっくりしました。
 
戦後、アメリカ海軍に「これだけは日本に及ばなかった」と言わしめた優秀なものが酸素魚雷、つまり九三式魚雷でした。
通常動力の魚雷は排気の水泡が海面に現れるものですが、九三式魚雷は酸素を動力とするため敵からすると航跡が見えなかったのであります。
この酸素動力を最初に着想したのはフランス海軍でしたが爆発の危険が多くて止めました。次にイギリス海軍が作りましたが、やはり爆発が頻発に起こり断念しました。
 
これを日本が研究し、多少の事故はありましたが朝熊利英中将、岸本鹿子治少将らがよく研鑽し、ついに安全な高圧酸素魚雷を発明しました。
これは皇紀2593年に出来たので九三式と名付けられました。
 
この功績で朝熊と岸本は天皇陛下から旭日中綬章、勲二等瑞宝章が授けられました。しかし、戦争に入ると主戦兵器が飛行機に変わってしまったため艦隊同士の決戦がなくなり、この高性能の魚雷は日本にとって宝の持ち腐れとなってしまいました。
 
日本のソロモン海戦での敗勢に血を燃やしていた黒木中尉と仁科少尉は、日本海軍のホープであったこの九三式魚雷が各鎮守府の兵器庫に積まれたままであったのを目の当たりにしました。そして、この魚雷を改装して一人乗りの人間魚雷をつくり百発百中の戦果を上げようと考えたのです。
 
それは真珠湾攻撃の際の特殊潜行艇とは比較にならない命中率と破壊力を有するものとなりました。この兵器ははじめ救国兵器と呼ばれ、ついで〇六(マルロク)と呼ばれ、後に回天と呼ばれました。
 
そして、この人間魚雷の志願者は後を絶たなかったといいます。
潜水艦に回天6基を積んで出撃し、敵の接近を確かめて回天を用意する。
搭乗員は回天に乗り込み、ハッチを閉めて母艦と絶縁する。
潜水艦長は電話で情報を伝えながら敵艦に近寄り、最善と思われるところで発進する。回天はエンジンを動かし2000メートルに1回の割合で潜望鏡を露出し、観測しながら進む。そして敵艦500メートルのところで突撃進路を決定し、深度4メートル前後で全速で突入、100%敵が知らない間に爆発して敵を轟沈。
 
この回天の戦績は大本営も連合艦隊司令部も頭が下がりました。
終戦までの3カ月間に、油槽船・輸送船15隻、巡洋艦2隻、駆逐艦5隻、水上機母艦1隻、艦種不明6隻を撃沈、他に2隻大破させました。この回天は常に奇襲において100%の破壊力を示したので、米海軍に大いなる脅威を与えていたのです。
特に原爆を搭載したあのインディアナポリス号を撃沈させたことは日本国民の溜飲を下げたのです。
 
回天に乗って出撃した一兵曹が母に宛てた手紙にはこうありました。
「私が死んだら、誰がお母さんを養ってくれるのかと思うと胸が詰まります。
しかし、お母さんは僕の出征の時に、お国のために立派に死んでおくれと言われました。あの停車場のお母さんの言葉を思い出して、僕はこれから決死の出撃をします。どうぞお元気にお暮らし下さい」
 
伊三六潜水艦の副長が、彼の遺書を見て一言激励しようとしたときは、もう彼の回天は発進されていました。今はただその回天が敵船団の大物を爆沈する轟音を待つのみでありました。そして、間もなく轟音が震撼し、大火柱を見たのです。
副長は急いで部屋に戻り、この遺書を見て、もう一度涙を流した。・・・
 
海軍の戦死者の合計は409千人を超えていました。その心は皆、この兵曹と同じであったことでしょう。
彼らは戦争になった以上は祖国を護ろうとして身命をなげうったのです。
一に愛国の赤誠に身を挺したのです。
 
海の特攻回天にて大きな戦績を残した98名(整備員などを含めると145人)の英霊がいます。
「七生報国」の白鉢巻きを頭に巻き、出撃していった若き兵士たち。
男子は困ったときや困難にうち当ると母を頼りたくなるものです。
母というのはそういうところがあるものです。
彼らもきっとこの歌を口ずさみ、お母さんを思い、そして、「天皇陛下万歳」と、お国のために散華していったのでありましょう。
 
嗚呼特別攻撃隊(←原曲は左をクリックしてください)
 
一、 祖国を後にはるばると 太平洋の浪枕幾夜仰いだ星月夜 ああ故郷の山や河
二、 許して下さいお母さん 黙って別れたあの夜のせつない思い必勝を 固く誓った僕でした
三、 わがまま言った僕ですが 今こそ征きます参ります靖国神社へ参ります さらば母さんお達者で
四、 師走八日の朝まだき 僕は特別攻撃隊男子の本懐今日の日よ 待っていましたお母さん
五、 天皇陛下万歳と 叫んだはるか海の底聞いて下さいお母さん 遠いハワイの真珠湾
 
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転載元: さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」


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