日本では古代から政権を執っていたのは朝廷でした。しかし、朝廷は失政や不徳によって自ら権力を失ったため武家政権が誕生しました。
これに対抗して後醍醐天皇が建武の中興を起こしますが、所領が欲しい武士たちは論功行賞への不満が募り、政権は朝廷から幕府にすべきだという主張に変わります。この時、朝廷にそむく中心が足利尊氏でした。
尊氏は一度挙兵したものの新田義貞らの官軍に敗れ九州に負走します。
そこで尊氏は敗因を反省し「天皇を担いでいない者は敗れる」と悟りました。
皇室の権威を利用しようと後伏見上皇に院宣を願い出て、上皇はこれを受けました。これが北朝です。
尊氏が「錦の御旗」を立てて攻め上がると諸国の武士は次々と尊氏軍に付きました。朝廷の権威は両軍にあるということになるとあとは実利の問題です。武士たちは所領を貰えそうな尊氏側に集まりました。
しかし、この時ただ一人、所領よりも大義を重んじて立ったのが楠木正成でした。正成は勇猛で、智謀に富み、戦の天才ともいわれ、千早城や赤坂城などでは見事な戦いをして幕府軍を苦しめます。
しかし、正成の度重なる建言も聞き入れられず情勢は不利となります。遂に正成は尊氏の大軍を正面から迎え討たなければならなくなってしまいます。
正成は出陣の時に「今はこれまでなり」と述べました。
どこまでも天皇への忠誠を尽くす正成は自分の意見が通らなくとも潔くあきらめて、湊川の合戦に赴きます。巨万の大軍に対し正成はわずか700騎。
善戦およばず正成は敗れ自害を決意します。この時、正成は弟の正季に「何か言い残すことはないか」と尋ねました。
正季は「七たび生まれて、朝敵を討ち滅ぼしたいものです」と答えました。
正成は「実は私も同じだ」と言い、高らかに笑いながら兄弟刺し違えました。
これがのちの「七生報国」です。
こうした楠木正成の幕府や主君よりも天皇陛下に忠義を尽くすのが真の武士の大義である、という考えが日本中に広まっていきます。幕末の吉田松陰らにとって大楠公は武士の鑑でした。正成の「七生報国」の思いは尊皇の志士たちの決起となって実現します。
また、楠木正成の家紋である「菊水」は大東亜戦争で回天に菊水の紋章があるように、帝国陸海軍は「七度生まれて国に尽くさん」という精神を受け継いだといえます。
足利尊氏が天皇陛下に反旗を翻すと、朝廷への恩よりも実利を優先させ、道を外した仁義にもとる武将たちがほとんどである状況にあっても、後醍醐天皇のために、そしてよりよい国をつくるために力を尽くされた大楠公。
この大楠公の忠節に対し、のちに明治天皇は湊川神社を創建されました。
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