2012-01-05
旅順攻略戦の乃木将軍
乃木将軍は愚将ではない。
「遺骨が一つ届いたからといって、慌てて葬式を出すな。三つ届いてからにしろ」
明治37年(1904年)8月19日、乃木将軍率いる第三軍は旅順総攻撃をかけます。これに先立ち、旅順要塞の強固さを認識した伊地知 幸介(いぢち こうすけ)第三軍参謀長は準備砲撃をかけています。突撃を行う前に敵陣地を砲撃しておくのです。これは世界戦史上初といわれています。司馬遼太郎「坂之上の雲」では伊地知参謀長を無能のように書いており、28センチ榴弾砲(りゅうだんほう)の投入を拒否したといわれていますが、実際は「今後のために送られたし」と返答していました。
第一回総攻撃で予想以上に要塞が強固で、第三軍は15,860名の死傷者を出してしまいました。そこで井上幾太郎工兵少佐が「築城攻撃」を提案しました。築城攻撃というのは敵の陣地まで壕を掘り進め、堡塁(ほうるい)真下で爆薬を仕掛けて爆破したり、突撃壕を作り、そこから敵陣へ突入する方法です。井上少佐は要塞戦術のエキスパートでした。こうした築城攻撃は日本軍では経験がなく、また時間もかかり、海軍から旅順攻略をせっつかれていた第三軍参謀たちは難色を示しますが、乃木将軍はこれを採用します。乃木将軍のこの決断が難攻不落の旅順を陥落させる決め手になったと言ってよいでしょう。
10月26日、届いた28センチ榴弾砲が火を噴き、第二次総攻撃開始。このときの前哨戦で既に203高地も攻撃目標になっています。203高地攻略には2900人が投入され、200人が戦死、1600人が負傷しており、死傷者の割合は6割にものぼっています。
30日に全軍が塹壕を飛び出し突撃します。ロシア軍の猛攻の前に死傷者が続出し、敵陣地になだれ込むと銃剣による死闘が展開されました。31日、乃木将軍はこれ以上の突撃は無謀であると判断し、退却命令を出しました。日本軍の死傷者は3,800人。ロシア軍の死傷者は4,500人。「築城攻撃」が功を奏し、日本軍の犠牲は大幅に減りました。
11月8日、大本営において海軍が「203高地を速やかに奪取し、観測所を置いて(旅順)港内の敵艦を撃沈してほしい」と要請がありましたが、大山厳総司令官と児玉源太郎総参謀長は「203高地は旅順の死命を制するものではない。第三軍は現在の計画に従い、鋭意果敢(えいいかかん)に攻撃を実行することこそ勝利への最短の道である」と回答しています。
11月26日、第三次総攻撃を開始。歩兵第二旅団長の中村覚少将は「兵が無数に死んでいる。そろそろ上の者が死なないと申し訳が立たないではないか」と言って白襷隊(しろだすきたい)を率いて松樹山(しょうじゅざん)第四堡塁へ突入しました。
苦戦と見た乃木将軍は旅順港内を見渡せる203高地に猛攻を加え、敵兵力をその方面に裂かせ、敵の予備兵力を徹底的に消耗させる作戦に転じました。27日午前3時、28センチ榴弾砲が火を噴き、6時に第一師団が203高地へ突撃。以降50時間にわたり203高地で大激戦が繰り広げられます。この203高地争奪戦で乃木将軍の次男・保典少尉が戦死しました。戦死の報は乃木将軍に伝えられました。
- ふむ、そうか。
乃木将軍はこれだけしか答えなかったといいます。(※1)
12月5日、第三軍は203高地を完全占領。さらに第三軍は坑道を掘り、堡塁を次々に爆破し、敵陣地を次々占領していきました。明治38年(1905年)1月1日、敵将ステッセル中将は降伏を申し出て、1月5日、乃木、ステッセル会談が行われ、旅順攻防戦は終了しました。
乃木将軍の長男の勝典中尉もまた南山(なんざん)攻撃戦で戦死しています。
「ひとり息子と泣いてはすまぬ。二人亡くした方もある」・・・日露戦争後、このような俗謡が流行しました。
※1 「よく戦死してくれた。これで世間に申し訳が立つ。」と述べたという話もある。
参考文献
PHP「歴史街道」2011.11『203高地の真実』
PHP研究所「坂の上の雲のすべてがわかる本」後藤寿一(監修)
文春文庫「坂の上の雲」司馬遼太郎(著)
添付画像
旅順陥落 二百三高地