2012-06-02
外国人が見た横浜の慶応の大火
かつて日本は美しかった誇りある日本、美しい日本へ
開港間もない横浜で大火事があった。
幕末期の慶応二年十月二十日(1866年11月26日)、横浜で大火がありました。関内の日本人居留区の1/3、外国人居留区の1/4が焼失しました。豚肉料理屋鉄五郎から出火したため「豚屋火事」とも言われています。火事は遊郭に燃え移り、風にあおられ、日本人居留区から外国人居留区に広がりました。このときの様子をイギリスの外交官アーネスト・サトウが記録しています。
「いつも相当の人出で混雑している狭い往来は、今や群衆で全く身動きも出来ないありさま。興奮しきった人々は、身近に迫った猛火の中からやっと持ち出した家財道具をかつぎながら、狭い通りの下手の端からなだれをうって押し寄せてきた。私は、燃えている家のそばへできるだけ近づこうとしたが、火脚の速いのにびっくりして、いそいで退却した」
大混乱だったことがわかります。現在の横浜公園あたりになります。ここに遊郭があり、沼地で囲まれていたため、なかには沼に飛び込んで溺れた遊女もいました。ここから風にあおられ大田町、弁天通に燃え移っていったのです。
「突然、すぐ近くの街の半分が、ものすごい閃光を発してパっと燃え上がった、油商人の店に火がついたのだ。もう、一刻の猶予もできる場合ではなかった。私は踵をかえして、わが家の方へ駆け出した」
もう大変です。アーネスト・サトウの家は風下にあったので、家のものを手あたり次第に外に運び出しました。数人の友人とイギリス兵士が手伝ってくれました。そしてとうとう、火がまわってきて家は焼失してしまったのです。
「途方もない大きな火の粉や、真っ赤に燃えた木片などが、中間地帯の空き地を飛び越えて、アメリカ領事館を燃え上がらせ、ジャーデン・マゼソン会社の屋根に燃え移り、さらに居留区の二つの通りに沿って燃え上がった。『耐火性』があると思って、私たちの大部分の荷物を運び込んでおいた倉庫にも火の手があがったので、持ち出した品物はほとんど全部が焼失してしまった」
ジャーデン・マゼソン会社は現在のシルクセンターのあたりです。そこから山下通りに沿って8番、現在のホテルニューグランドの手前まで焼失しました。石造りの倉庫も全く役に立ちませんでした。
スエンソン
「ここへ来てみると(噂は)まったく根拠のないことが判明した。日本人自身、西洋人よりはるかにひどい火災の被害をうけていて、それにもかかわらず、あっぱれな勇気と賞賛すべき犠牲心と沈着さを発揮して、西洋人の貴重品を無事に運びだす手伝いをしたのだった」
それから遊郭の女性たちが多く死亡したことを述べています。
「焼け落ちて今はもう平らな野原だけになってしまったヤンキロー(岩亀楼)だけでも、三十人近い娘があるいは炎に包まれて、あるいは水に飲まれて命を落とした」
復興に励む日本人をスエンソンは賞賛しています。
「日本人はいつに変わらぬ陽気さ呑気さを保っていた。不幸に襲われたことをいつまでも嘆いて時間を無駄にしたりしなかった」
「日本人の性格中、異彩を放つのが、不幸や廃墟を前にして発揮される勇気と沈着である。ふたたび水の上に浮かび上がろうと必死の努力をするそのやり方は無分別にことにあたる習癖をまざまざと証明したようなもので、日本人を宿命論者と呼んでさしつかえないだろう」
こうした災害時の日本人観察はスエンソンだけでなく、別の外国人にもみられます。アメリカ総領事のハリスの通訳をつとめたヒュースケンは安政三年(1856年)秋に下田を台風が襲い1/3が破壊され、台風が去ったあとの日本人の態度を見て驚いています。
「日本人の態度には驚いた。泣き声ひとつ聞こえなかった。絶望なんてとんでもない!彼らの顔には悲しみの影さえもなかった。それどころか、台風なんてまったく関心がないという様子で、嵐のもたらした損害を修復するのに忙しく働いていた」
参考文献
講談社学術文庫「江戸幕末滞在記」エドゥアルド・スエンソン(著)/ 長島要一(訳)
有隣堂「横浜外国人居留地」横浜開港資料館(編)
岩波文庫「ヒュースケン日本日記」青木枝朗(訳)
横浜開港記念推奨サイト
横浜税関 資料展示室のご案内 http://www.customs.go.jp/yokohama/museum/tenjishitsu.htm
横浜都市発展記念館 http://www.tohatsu.city.yokohama.jp/
文頭画像
ガス灯の絵
横浜人形の家
山下通り
震災後なぜ日本人は冷静なのか フランス