2012-05-31
天皇のご喪儀はなぜ土葬になったか
かつて日本は美しかった誇りある日本、美しい日本へ
もともと火葬だった。
両陛下ご喪儀:宮内庁、火葬の具体的協議開始
毎日新聞 2012年05月24日 21時39分(最終更新 05月24日 21時59分)
天皇、皇后両陛下のご喪儀を巡り、宮内庁の羽毛田信吾長官は24日の定例記者会見で、火葬を行うことなどに関する具体的な協議を庁内で始めたことを明らかにした。一つの陵に入る合葬に関し、皇后さまが以前から遠慮する意向を示していたことにも触れた。
羽毛田長官は4月26日、両陛下の意向を受け、土葬ではなく火葬を検討していることや合葬も視野に入れて検討することを発表。風岡典之次長は今月の会見で、皇后さまが「ご一緒の方式はご遠慮すべきだ」という考えを持っていることを明らかにしていた。・・・続き http://mainichi.jp/select/news/20120525k0000m040111000c.html |
先月、宮内庁の羽毛田信吾長官は天皇・皇后両陛下の「ご喪儀(そうぎ)」について、両陛下の意向を踏まえ、江戸時代以降の慣例となっている土葬ではなく、火葬の方向で検討していくと発表しました。これまで土葬だったとは少し驚きました。毎日jpの特集ワイドでは皇室の歴史に詳しい小田部雄次・静岡福祉大学教授を取材し、女帝の持統天皇(じとうてんのう、大化元年(645年) - 大宝2年12月22日(703年1月13日))が火葬されたことが分かっており、これは仏教思想によるものと述べています。そして、ずっと火葬だったのが江戸時代初期の1654年、後光明天皇の葬儀で土葬が復活し、これは遺体を傷つけることをよしとしない儒教思想の広がりによるものと考えられるが、「長い断絶を経て突然、土葬に変えるには何らかの根あったはずだが、はっきりしない」としています。(※1)
なぜ、火葬から土葬になったのか?読売新聞(5月30日朝刊 ※2)に日本史家の磯田道史氏が論説を掲載していました。磯田道史氏といえば映画にもなった「武士の家計簿」の原作者として有名でしょう。磯田氏は「後光明天皇外記」という慶応の図書館にある現物を調査しています。少し引用します。
「読むにつれ後光明天皇の強い個性に驚かされた。なにしろ仏教が大嫌い。仏教を『無用の学』と切り捨て、この帝はなんと開けてはいけない三種の神器の鏡の入った唐櫃(からびつ)を開けて見た。なかに鏡だけでなく仏舎利があったのをみつけ、『怪しい仏舎利め』と庭にすてさせた。徹底した仏教嫌いの天皇であった」
皇室というと神道なので、仏教と天皇というと現代ではピンとこないかもしれませんが、江戸時代までは天皇を仏教の大日如来になぞらえていました。即位礼で天皇は密教の真言を唱えて、手に知拳印(両親指を掌中に入れて握り、左人差し指を立てて右拳で握る)を結ぶ儀礼を行なっていました。これによって天皇は大日如来と合体することになるのです(※3)。宮中祭祀でも民間ではお彼岸にあたる「春季皇霊祭」「秋季皇霊祭」は仏式で行われていました(※4)。
結論を言うと仏教嫌いの後光明天皇が仏教の風習である火葬を嫌ったということになります。それにしても三種の神器の鏡の入った唐櫃(からびつ)を開けて見たというのは驚きます。これはよく知られているように天照大神(アマテラスオオミカミ)天の岩戸に籠られたとき、外にお出しするときに使った鏡のことです。唐櫃をあけると光がさして目がくらみ、鼻血が出ると平家物語で伝えられているものです(※4)。
「こんな仏教嫌いの天皇を仏教式に火葬するのはいけないと例の魚屋が動いたようだ。『疱瘡で死んだ死骸は庶民も火葬にしない。天皇を火葬にすれば天下国家に災いが起きる』。魚屋がそう脅したら僧侶も折れたという。火葬は真似だけ。点火はせず非公式ながら土葬になった」
「例の魚屋」と言っているのは、江戸時代では天皇の食膳に毎日鯛が出ていました。贅沢とかそういうのではなく鯛はめでたい高貴な魚なので国家安泰の儀礼になっていたのです。それで魚屋は御所深くに食い込んでおり、口が出せたのです。その魚屋が天皇が嫌う仏式の火葬に猛反発したわけです。後光明天皇の跡を継がれた後西天皇も生前の意向を汲まれ土葬となりました。そして以降、慣例として土葬が続いてきたということです。
※1 特集ワイド:ご喪儀「火葬」受け止め方 理想求められた流れの帰結/「ご自由に」では尊厳なくす http://mainichi.jp/feature/news/20120524dde012040011000c.html
※2 読売新聞5月30日朝刊 27面 「天皇の土葬 魚屋が奔走」磯田道史
※4 転展社「宮中祭祀」中澤伸宏(著)より
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