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ノモンハンは負け戦ではなかった。
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昭和14年(1939年)5月、日満軍(日本、満州)とソ蒙軍(ソ連、外モンゴル)が満州国ノモンハーニー・ブルドー・オボー周辺で激突。ノモンハン事件が勃発しました。日本軍はソ連機械化部隊に歯が立たず大敗北したというのは大嘘で、ソ連側の損害は日本のそれを上回っており、日本軍の大健闘だったことがわかっています。
6月27日、日本飛行集団を総力を挙げて、国境から百数十キロ入ったタムスク飛行場を空襲しました。これでソ連軍は委縮し、空の脅威が一時的になくなりました。日本軍はハルハ河渡河攻撃を練っており、関東軍参謀・辻正信中佐は偵察機を飛ばさせ、対岸が堅固な陣地ではなく、単に戦車の入る掩壕(えんごう)が蜂の巣のように作られていることを確認します。
7月1日、夜間に日本軍は行動開始。第二十三師団主力の小林支隊は翌正午ごろ、フイ高地に到着。このとき先頭に敵砲弾が落下し、小林少将は乗っていた馬に一鞭あて、先方の高地に駆け上がり、「命令受領者、前へ」と命じながら双眼鏡をとって自ら敵陣地を偵察し、現地を指さして、各部隊に攻撃命令を下命しました。この結果、敵戦車を撃退し、フイ高地の一角を占領しました。
日本軍は夜間、ハルハ河を渡河します。この日本軍の渡河にはソ連側は驚愕します。西岸では安岡支隊がソ連軍を攻撃しており、ソ連狙撃連隊と装甲車旅団が大損害を受けており、こちらの救援にやっきになっていたのです。司令官のジューコフは焦り、航空機による爆撃を命じ、できる限りの戦力を集め、迎撃に向かわせましたが、歩兵戦力が著しく不足しており、戦車単独の攻撃となります。史上初の戦車の大群と歩兵・砲兵の対決となったのです。
日本軍先頭部隊がハラ高地に到着すると前方に戦車、装甲車の大群が見て取れます。その数は約200輌。日本軍は射程400メートルまで戦車をひきつけ、速射砲で応戦。装甲車に対しては重機関銃による集中射撃で応戦しました。ソ連戦車、装甲車は次々炎上。あまりの見事さに関東軍参謀・辻正信中佐は兵に何か褒美をやろうと考えましたが、何もないので恩腸(おんし)のタバコを分け与えました。このタバコは宮内庁だけに納入される市販されてないもので、皇室を表す菊花紋章が入ったものです。兵たちは機関銃弾や砲弾が絶え間なく飛んでくる中でゆっくり吸いおわりましが、吸い殻をもったいなさそうにいじっていました。分隊長はそれに気づき、「おい、皆、吸い殻をポケットに入れてお守りにせよ!」と叫び、兵たちは吸い殻をポケットに入れ、再び突進してきた新手の戦車の第二派に、また必中弾を浴びせました。
この戦闘は「戦車狩り」と言われ、砲兵と重機関銃がソ連戦車を撃破するのを見守っていた歩兵たちの間から「万歳!」の歓声が何度も沸き起こりました。砲兵が撃ち漏らしたソ連戦車は40~50メートル接近したところで、歩兵や工兵たちの手によって火炎瓶や地雷によって破壊されました。中にはBT戦車の砲塔に飛びついてハッチをこじ開け、手りゅう弾を放り込んだり、銃剣や軍刀で乗員を突き刺して擱座(かくざ)させる猛者までいました。7月3日までに100輌程度を破壊し、その情景は日本側の多くの戦記で次のように伝えられています。
「まるで八幡製鉄所をはじめとする工業地帯の煙突からたなびく煙のように、多数炎上した戦車からの煙が空にたなびいていた」
日本軍は補給がただ一本の橋梁によらなければならなく、弾薬も残り少なくなったため、これ以上の戦果は期待できないという判断からハルハ河東岸に引き上げることに決定します。安達大隊が取り残され包囲されるというハプニングがありましたが、夜襲をかけて救出し、日本軍は7月5日には東岸へ引き揚げました。
参考文献
有明書院「ノモンハン事件の真相と戦果」小田洋太郎・田端元共(著)
産経新聞出版「ノモンハンの真実」古是三春(著)
毎日ワンズ「ノモンハン秘史」辻政信(著)
添付画像
ハルハ河工兵橋 「ノモンハン事件の真相と戦果」より
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