女系天皇反対-藤原正彦
保守思想においては伝統は切離せないものです。伝統とはなにか、それは目に見える全国各地に連綿と伝わる伝統工芸、先人が残した美術品などに限定されることはなく、いままでの歴史の英知によって構成されているのです。伝統とは不文律ゆえに非常に柔軟性があり、ダイナミックです。日本の歴史は非常に安定的でなおかつ長く、数百年・数千年の我らの祖先の英知により伝統が生まれ、一国一文明一王朝を護持してきたのです。
ではなぜ伝統が必要になるのでしょうか?それは人間というものは完全になりきることができないからです。人間とはつねに理性的な行動をするとは限らず、善行をおこなっているつもりでも冷静に考えれば愚行を犯しているからです。そこで、いったい何をもってして善行と言えるのかという基準が伝統なのです。伝統は長い歴史の中において不必要なものは基本的には淘汰されてきているので模範とすべきでことなのです。そして、この伝統を一般的にはどのようにいっているかといえば”常識”と呼び、良識と呼んでも差し支えないでしょう。
筆者はその常識にさえ従っていれば問題はないだろうと言いたいのです。かって我々の先人は「書」を嗜み、「学」を修め身を律してきました。
「修天爵而人爵従之(天爵を修めて人爵これに従う)」この句は中国の古典である四書五経の中の『孟子』から引用したものですが、学問の目的は人格の完成にある。人爵ともいうべき地位・財産・利益・栄誉等を直接の目的とするのは本末転倒であり、天爵(最高品性)を修めれば、人爵はその結果として自然につき従う。権力者におもねたり、時勢に流されることなく、人間としてなすべきことを踏み行い、大道を歩めば,思いわずらいのない堂々とした人生を切り拓く事ができると捉えてきたのです。
しかし、現世の人々最低限の「読み書き」は出来ても、身を律する学問はしていません。だからしばしばメディアなどに動かされその常識の一部分を忘れてしまうのです。
そのような人々を”大衆”と呼びます。
国民というのは義務をすることによって権利をもらっている人に他ならず、権利のみを主」し自らの義務を忘れてしまった人々が大衆と呼びます。この権利と義務のバランスをとるのが伝統の役目であるとすると大衆というものは伝統を破壊する傾向にあることがわかります。現代社会は高度大衆社会と言われるように大衆がすべてを取り仕切り伝統の破壊をする時代であるといえます。
では過去においてはどのように伝統の保持がおこなわれたのか。過去においては人間はすべて神とともにあり、祖先を尊ぶ「神道」であり、武士には武士道という道徳がありました。武士道とは今日の新興宗教と違い、誰かが突然考えたことではなく、長い歴史の中でゆっくりと醸成されたものです。武士たちは自分たちにはノブレスオブリージュ、つまり高貴な義務があると考えた。それゆえに、武士たちは恥となるような行動は慎むようにし、どのようなことが恥になるかは伝統、つまり道徳を破ることでした。武士たちの高貴な行動は庶民たちにも影響を与えた。明治の時代になっても武士道は捨てられることなく形を変え日本国民の間に親しまれていた。日清・日露・大東亜戦争などの軍神ともいえる日本軍人・先人先達の活躍は武士道に根ざしていたといっても過言ではないのです。
しかし、問題は戦後日本です。敗戦のショックによってアメリカへの追従をすることをよしとしたものや、進歩主義と呼ばれる左翼的な考えをもつものが出てきました。進歩主義は人間は完全であるがゆえに、最後は世界市民になれるというリベラルな考え方であり、国家という伝統の産物が戦争の原因と捉え、日本という国はなくならないと戦争がまた起き、世界政府もつくれないと考える幼稚・妄想的な主義に冒されています。またアメリカへの追従は戦後すぐは敗戦によって確かにそうせざるを得ない面もあったでしょうが、一向に自主防衛を鑑みずに日本をよりアメリカ的にしようとする対米追従の考え、彼らは反左翼であったので伝統を大事にしていると勘違いされがちであるが、歴史軽視のアメリカのやり方を日本に強引に導入し、導入に邪魔な伝統を廃止しようとしているという左翼でもあるのです。左翼と反左翼の戦いは結局のところ左翼の内輪もめ、内ゲバにすぎないのです。また「聖域なき構造改革」とのたまわった小泉元首相が行なった伝統破壊という点で左翼でしかないのです。
戦後の”常識”をもった庶民を大衆へと変化させた原因の一つに偏った戦後教育も挙げられる。日教組などが中心の自虐的歴史教育やヒューマニズム信奉の道徳教育の影響は計り知れれません。このような教育と平和ボケにより国家意識というもの消滅寸前であり、独立した国家意識などは、せいぜい国家意識を思い出すときは五輪やスポーツの世界大会の時ぐらいなものだろうか。
戦後日本はまさに「伝統破壊」の歴史と言っても過言ではありません。
2600年に及ぶ我国の歴史を否定し、習俗、文化を悉く破壊に至らしめているのです。
冒頭の動画は、「国家の品格」の著者、藤原正彦氏が女系天皇について述べられたものですが、動画の中で、
「世論をうかがうこんなのはあまりにもあほくさくてですね、世論なんてなんも関係ない話ですね。
国民の声なんて聞いてたら国は潰れますからね」
と大衆社会についての誤りを指摘し、また
「たとえばですね世論なんて一日にして変わるもんですね。憲法は数十年かもしれませんけど、一日にして変わるそのような意見に基準を置いたらですね
伝統は全く保てないですね。そもそもですね現代人、平成の民が何故に、そのような2000年の伝統を変える、この力があるか?権利があるかという事ですね。」
と伝統破壊に警鐘を鳴らされています。
また、著書「国家に品格の中で、「政治や経済をどう改革しようと、そしてそれが改善につながったとしてもたかだか生活が豊かになるくらいで、魂を失った日本の再生は不可能である。いまできることは、時間はかかるが立派な教育を子供たちにほどこし、立派な日本人をつくり、彼らに再生を託すことだけである。
教育とは、政治や経済の諸事情から超越すべきものである。人々がボロをまとい、ひもじい思いをしようと、子供たちだけには素晴らしい教育を与える、というのが誇り高い国家の覚悟と思う」と氏は述べています。
伝統を破壊し、「お国柄」を失いつつある現代日本。
その結果は、政治の迷走、経済の衰退、世相の荒廃に顕著に現れています。
伝統を取戻すことこそ、日本再生、道義国家として世界から尊敬された我国の本来の姿ではないでしょうか?
また伝統の護持こそが、先人・先祖の思いではないでしょうか?
ではなぜ伝統が必要になるのでしょうか?それは人間というものは完全になりきることができないからです。人間とはつねに理性的な行動をするとは限らず、善行をおこなっているつもりでも冷静に考えれば愚行を犯しているからです。そこで、いったい何をもってして善行と言えるのかという基準が伝統なのです。伝統は長い歴史の中において不必要なものは基本的には淘汰されてきているので模範とすべきでことなのです。そして、この伝統を一般的にはどのようにいっているかといえば”常識”と呼び、良識と呼んでも差し支えないでしょう。
筆者はその常識にさえ従っていれば問題はないだろうと言いたいのです。かって我々の先人は「書」を嗜み、「学」を修め身を律してきました。
「修天爵而人爵従之(天爵を修めて人爵これに従う)」この句は中国の古典である四書五経の中の『孟子』から引用したものですが、学問の目的は人格の完成にある。人爵ともいうべき地位・財産・利益・栄誉等を直接の目的とするのは本末転倒であり、天爵(最高品性)を修めれば、人爵はその結果として自然につき従う。権力者におもねたり、時勢に流されることなく、人間としてなすべきことを踏み行い、大道を歩めば,思いわずらいのない堂々とした人生を切り拓く事ができると捉えてきたのです。
しかし、現世の人々最低限の「読み書き」は出来ても、身を律する学問はしていません。だからしばしばメディアなどに動かされその常識の一部分を忘れてしまうのです。
そのような人々を”大衆”と呼びます。
国民というのは義務をすることによって権利をもらっている人に他ならず、権利のみを主」し自らの義務を忘れてしまった人々が大衆と呼びます。この権利と義務のバランスをとるのが伝統の役目であるとすると大衆というものは伝統を破壊する傾向にあることがわかります。現代社会は高度大衆社会と言われるように大衆がすべてを取り仕切り伝統の破壊をする時代であるといえます。
では過去においてはどのように伝統の保持がおこなわれたのか。過去においては人間はすべて神とともにあり、祖先を尊ぶ「神道」であり、武士には武士道という道徳がありました。武士道とは今日の新興宗教と違い、誰かが突然考えたことではなく、長い歴史の中でゆっくりと醸成されたものです。武士たちは自分たちにはノブレスオブリージュ、つまり高貴な義務があると考えた。それゆえに、武士たちは恥となるような行動は慎むようにし、どのようなことが恥になるかは伝統、つまり道徳を破ることでした。武士たちの高貴な行動は庶民たちにも影響を与えた。明治の時代になっても武士道は捨てられることなく形を変え日本国民の間に親しまれていた。日清・日露・大東亜戦争などの軍神ともいえる日本軍人・先人先達の活躍は武士道に根ざしていたといっても過言ではないのです。
しかし、問題は戦後日本です。敗戦のショックによってアメリカへの追従をすることをよしとしたものや、進歩主義と呼ばれる左翼的な考えをもつものが出てきました。進歩主義は人間は完全であるがゆえに、最後は世界市民になれるというリベラルな考え方であり、国家という伝統の産物が戦争の原因と捉え、日本という国はなくならないと戦争がまた起き、世界政府もつくれないと考える幼稚・妄想的な主義に冒されています。またアメリカへの追従は戦後すぐは敗戦によって確かにそうせざるを得ない面もあったでしょうが、一向に自主防衛を鑑みずに日本をよりアメリカ的にしようとする対米追従の考え、彼らは反左翼であったので伝統を大事にしていると勘違いされがちであるが、歴史軽視のアメリカのやり方を日本に強引に導入し、導入に邪魔な伝統を廃止しようとしているという左翼でもあるのです。左翼と反左翼の戦いは結局のところ左翼の内輪もめ、内ゲバにすぎないのです。また「聖域なき構造改革」とのたまわった小泉元首相が行なった伝統破壊という点で左翼でしかないのです。
戦後の”常識”をもった庶民を大衆へと変化させた原因の一つに偏った戦後教育も挙げられる。日教組などが中心の自虐的歴史教育やヒューマニズム信奉の道徳教育の影響は計り知れれません。このような教育と平和ボケにより国家意識というもの消滅寸前であり、独立した国家意識などは、せいぜい国家意識を思い出すときは五輪やスポーツの世界大会の時ぐらいなものだろうか。
戦後日本はまさに「伝統破壊」の歴史と言っても過言ではありません。
2600年に及ぶ我国の歴史を否定し、習俗、文化を悉く破壊に至らしめているのです。
冒頭の動画は、「国家の品格」の著者、藤原正彦氏が女系天皇について述べられたものですが、動画の中で、
「世論をうかがうこんなのはあまりにもあほくさくてですね、世論なんてなんも関係ない話ですね。
国民の声なんて聞いてたら国は潰れますからね」
と大衆社会についての誤りを指摘し、また
「たとえばですね世論なんて一日にして変わるもんですね。憲法は数十年かもしれませんけど、一日にして変わるそのような意見に基準を置いたらですね
伝統は全く保てないですね。そもそもですね現代人、平成の民が何故に、そのような2000年の伝統を変える、この力があるか?権利があるかという事ですね。」
と伝統破壊に警鐘を鳴らされています。
また、著書「国家に品格の中で、「政治や経済をどう改革しようと、そしてそれが改善につながったとしてもたかだか生活が豊かになるくらいで、魂を失った日本の再生は不可能である。いまできることは、時間はかかるが立派な教育を子供たちにほどこし、立派な日本人をつくり、彼らに再生を託すことだけである。
教育とは、政治や経済の諸事情から超越すべきものである。人々がボロをまとい、ひもじい思いをしようと、子供たちだけには素晴らしい教育を与える、というのが誇り高い国家の覚悟と思う」と氏は述べています。
伝統を破壊し、「お国柄」を失いつつある現代日本。
その結果は、政治の迷走、経済の衰退、世相の荒廃に顕著に現れています。
伝統を取戻すことこそ、日本再生、道義国家として世界から尊敬された我国の本来の姿ではないでしょうか?
また伝統の護持こそが、先人・先祖の思いではないでしょうか?