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満州に安東市という朝鮮との玄関口に当たる街があった。終戦後、満州各地で起きていたソ連軍による日本人婦女暴行がこの街にも伝えられてきた。
安東市の日本人会はその対策を温泉地の湯池子(タンチーズ)の料亭の女中頭であったお町さんに持ちかけた。お町さんはきっぷのよい姉御肌で女性からも男性からも好かれていた。
「安東在住の日本人女性を守るためなら、慰安所でもキャバレーでもつくりましょう。任せて下さい」とお町さんは胸を叩いて引き受けた。
お町さんは高級キャバレー「安寧飯店」をつくろうという構想を持っていた。従業員は避難民から採用し、利益は避難民の救済に充て、お客の国籍は問わない。ただし当分の間、日本人は立ち入り禁止とした。
安寧飯店を運営するにはまず”慰安婦”を集めなければならなかった。お町さんは慰安所設立の必要性を切々と説いて回り、その熱意に誘われて約20名の日本人女性が同意してくれた。
応募した女性達は自ら大和撫子の純潔を守るために”特攻隊”を自認した。
安寧飯店は大繁盛で、蒋介石の国民党軍や支那共産党の八路軍も来たが、圧倒的に多かったのはソ連兵であった。
ルールを無視したり、狂暴な振る舞いをするソ連兵がいると、お町さんは電話一本で憲兵を呼んだ。そのため安東では新京や奉天に較べて婦女暴行事件が少なかった。これは間違いなくお町さんの安寧飯店が兵士達の欲望を吸収したからであった。
お町さんはこの店をつくって日本女性を守っただけではなく、避難してきた傷病兵を引き受けて看病した。また、店は国民党軍や八路軍の社交の場ともなり、貴重な情報源でもあった。
その情報が安東の日本人会に活かされ、治安維持に役立った。
お町さんは口癖のようにこう言っていた。
「お町は日本人でございます。唐人お吉ではありません。この目玉の黒いうちは滅多に餓死させるものではありません。ソ連も国府も八路もございません。日本のために生き、死ぬばかりです。時を経て、一顧だにされないだろう事は覚悟の上でございます」。
そのお町さんは、ソ連軍が撤退した後、支那共産党の八路軍によって国民党スパイと誤解されて昭和21年6月に逮捕され、同年9月17日、鴨緑江河畔で銃殺刑に処された。
死の直前、お町さんは娘の正子さんに「一足先に日本に帰ります」と言い残して、着ていた紋付の羽織を形見として渡した。
お町さんの本名は道官咲子といい、出身は福井県坂井郡芦原町。
昭和31年4月8日、郷里に近い加賀市吉崎に高さ2メートル半の「道官咲子碑」が建立された。当時、地元紙では「安東の母」「日本人女性を救った殉教の烈女」などと称えられた。
また、愛知県三ヶ根山には東京裁判で処刑された7名の「殉国七士廟」があるが、その周囲に群立する慰霊碑の中に「お町碑」が建っている。
終戦直後の想像を絶する大混乱の満州で「お町は“日本人”でございます」と胸を張って生き、多くの日本人女性を救った立派な女性がいたことを、知っておきたい。
「日本に生まれて良かった」様により動画にされています。
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