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戦後、学校教育から消えたのが「教育勅語」「修身」、そして立派な軍人さんや偉人を歌った「唱歌」である。
唱歌の中には、戦前教育の人達がよく知る楠正成公とその子・楠正行の最後の別れを歌った「桜井の別れ」は日本人の琴線に触れる歌である。
死に行く父との最後の別れのやり取りには「私心」が全くない。二人の親子にあるのは忠義の「公の精神」だけである。
これが日本人が理想としてきた姿であった。
大東亜戦争で回天にあった「菊水」は楠家の家紋である(上画像)。特攻隊の鉢巻には「七生報国」とあったが、これは楠正成公とその弟・正季の最後の時に交わした言葉「七生滅賊」からきている。
戦前の日本人はいかに大楠公を尊崇していたかの証である。
天皇陛下を蔑にしてきた武家中心の日本から、本来の天皇陛下を中心とした国にしていこうとした後醍醐天皇の「建武中興」に対して、弓引く国賊の足利高氏。
戦後教科書では、陛下に弓引く足利高氏を正しいかのように書くが、天皇陛下に戦いを挑んだのだから「国賊」と教えるのが本来である。
大きな勢力となった国賊・足利に寄り添ってくる節操のない武士達。その数、数十万。
一方、日本は神武天皇創業以来、天皇陛下を中心にた国柄である。それを覆そうなどということは絶対に許されない。たとえ少数であっても最後まで陛下をお守りする忠臣・楠正成公。
その楠正成公、700騎余りで兵庫の湊川へ数十万の足利勢に戦いを挑む。
桜井の駅に来たところで、討ち死にを覚悟した楠正成公は子の正行を呼び寄せて「母のところへ帰れ」と言った。
すると正行は「どうして父を残して帰られましょうか。正行はまだ若いけれど、父と一緒に討ち死にする覚悟があります」と言った。
父・正成公は「お前を返すのは私情ではない。父がここで討ち死にすれば、日本は国賊・足利高氏の武家中心の世になる。しかし日の本の国は天皇陛下が中心にならねばならぬ。そのためにはお前は生き残って、陛下にお仕えし、お国のために国賊を倒さねばならぬのだ」と言った。
そして父・正成公は「お前には父の形見として、陛下から賜ったこの刀を贈る。早く母のところに戻って、国賊・高氏を倒しておくれ」と言った。
父と子が、ともに見送って別れて行く。これが親子の今生の別れであった。・・・
桜井の別れから10日ほどで正行は父の首級を受け取った。11歳の正行は落ちる涙を抑え、父の形見の菊水の刀で自害しようとした。
すると母が刀と手に取りついて、涙を押えて「汝、幼くとも父・正成公の子ならば道理がわかるはずであろう。今一度義兵を挙げ、朝敵を滅ぼし、大君を安泰にして、父の遺恨を散じ、孝行の道を備えよ」と言い「自害するなら母を殺せ」と言う母に正行は道理を感じて思い留まった。
それから数年後、高師直・師泰兄弟の6万の兵が河内に攻めて、正行の兵3千は四条畷で敗れ、正行は討ち死にした。23歳であった。
1.青葉茂れる桜井の 里のわたりの夕まぐれ
木の下陰に駒とめて 世の行く末をつくづくと
忍ぶ鎧の袖の上に 散るは涙かはた露か
2.正成涙を打ち払い 我が子正行呼び寄せて
父は兵庫に赴かん 彼方の浦にて討ち死せん
汝はここまで来つれども とくとく帰れ故郷へ
3.父上いかにのたもうも 見捨てまつりてわれ一人
いかで帰らん帰られん この正行は年こそは
未だ若けれ諸ともに 御供仕えん死出の旅
4.汝をここより帰さんは 我が私の為ならず
おのれ討死為さんには 世は尊氏の儘ならん
早く生い立ち大君に 仕えまつれよ国の為
5.この一刀は往にし年 君の賜いしものなるぞ
この世の別れの形見にと 汝にこれを贈りてん
行けよ正行故郷へ 老いたる母の待ちまさん
6.共に見送り見返りて 別れを惜しむ折からに
またも降りくる五月雨の 空に聞こゆる時鳥
誰か哀れと聞かざらん あわれ血に泣くその声を
・・・・・
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