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戦後教育から消された橋本景岳(橋本佐内)という大人物がいる。
あの西郷隆盛が「自分にはとても及ばない」と言わしめた橋本景岳がなぜ教えられなくなり、消されたのか?
戦前の「修身」教科書に「人間の度量」として西郷隆盛のことが書かれてある。
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西郷隆盛が江戸の薩摩藩の屋敷にいた時、福井藩の橋本景岳という人物が来て「ぜひお目にかかりたい」と申したので会ってみると20歳の色白い女のような若者であった。
隆盛は心の中で「これはさほどの人物ではあるまい」と見くびると、橋本景岳は軽蔑されていることを悟ったが、少しも気にかけず「あなたはこれまで国事に尽くされ、私もあなたの教えを受けて国のために尽くしたいと思います」と言った。
すると隆盛は、こんな若者に国事を相談することは出来ないと思い「それは大変な間違いです。私のような愚か者が国のためをはかるなど思いもよらぬことです」と相手にしなかった。
それでも橋本景岳は落ち着いて「あなたのご精神はよく承知しています。お隠しにならず打ち明けて下さい」と言って、国事について自分の意見を述べた。
隆盛はじっと聞いていたが、橋本景岳の考えがいかにもしっかりしていて、国のためを思う真心があふれていたので、すっかり感心した。
隆盛は橋本景岳が帰ると友人に「橋本はまだ若いが、意見は実に立派なものだ。見かけで相手にしなかったのは、自分の大きな過ちであった」と言い、深く恥じた。
隆盛は翌日、橋本景岳を訪ね「昨日は誠に失礼しました」と詫び、それから二人は親しく交わり、こころを合わせて国のために尽くした。
橋本景岳が死んだ後も、隆盛は「学問も人物も、自分が及ばないと思った者が二人ある。一人は水戸の藤田東湖、一人は橋本景岳である」と言ってほめていた。(参照:「第四期尋常小学修身書 巻五」)
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では、西郷隆盛は橋本景岳のどのような考えに感心し、自分にはとても及ばないと思ったのであろうか。
それは橋本景岳の國體と世界観にある。
幕末、橋本景岳は日本の国情を憂い、これを救うために前途を打開しようとした。特に橋本景岳は外国の学問に練達し、外国の書物を通じて世界の大勢を知った唯一の人物であった。
橋本景岳は「支那の地理の書物は嘘ばかりで実にデタラメである。その点、西洋人の書いた書物は実に正確である」と言った。
また橋本景岳は「今日外国へ出かけることは法令で禁じられているが、禁令は間もなく解除されるであろう。我々は全世界を闊歩する気性がなければならぬ」と言った。
橋本景岳は西郷に次のように説いた。
「世界各国がどんどん東洋にやって来る時に、日本だけが戸を閉ざして外国と交際しないなどということは出来ないのは一目瞭然である。
そこで日本がなすべきことは二つある。一つは国内の内政改革、一つは外交問題。外交は今後世界がどういう方向に向かうかを推定していかなければならない。
自分の考えでは世界は万国が一堂に会して相談してやっていく傾向になると思う。その場合、牛耳るのは英国か露国であろう。
日本が独力で立っていくには満洲や朝鮮などを合併し、米国やインドに領地を持たなければ思うようにいかない。しかしそれは難しいから他国と同盟しなければならず、同盟するとなれば英国や露国など世界の盟主と同盟するのがよい。
同盟締結をすると同盟しなかった国と戦いとなろう。国内は挙国一致の体制を取らねばならない。そこで天下の有名、陪臣に係わらず抜擢して重要な地位に就ける。露国や米国などから学術指導者を招聘して学術工芸を指導してもらう」。
さらに橋本景岳は「世界はスラブとアングロサクソンの戦いになっているから、どちらかと同盟し、どちらかと戦うことをしないと世界の競争の場に乗り出していくことは意味をなさない。
そのためには国内を固めておくことが大切である。天皇陛下をお守りし、京都の守護は尾州に因幡の池田候を配し、副官に彦根を採用した方がいい。国内を統一するために國體の根本がわかっている一橋慶喜を第一とし、任命は天皇陛下よりされなければならない」と言った。
橋本景岳は彦根は使えると考えていた。
しかし、彦根の井伊直弼が大老になると、橋本景岳を危険視した。
安政六年、橋本景岳は「主君の許しを得ずに天皇に手紙を出した」という罪に問われ、江戸の牢獄につながれて、取り調べの結果、「島流し」にされた。
しかも、この「島流し」の刑に井伊直弼は自ら筆をとって「死罪」に書き改めた。井伊にとって橋本景岳は自分を脅かす恐るべき相手であり、ここで命を奪っておかなければならないと考えた。
橋本景岳、処刑。26歳であった。これが世に言う「安政の大獄」である。
隣国の清国が西欧の植民地と化し、その勢力が日本に津波のように迫り、いつ外国の餌食となってしまうかわからない時に、橋本景岳は徳川幕府ではもはや対応できないことを知っていた。
日本は本来の天皇陛下を中心にした国にして、新たな体制をつくらねば、間違いなく日本も外国の植民地になってしまう、という強い危機感を持っていた。
ちょうどこの頃、佐内は次のような詩を詠んだ。
数曲のあでやかな音楽が流れる中 うまい酒を酌み交わす
美しい着物で飾り 海から出る月を迎える
誰が知っているであろうか この美しい月光が 欧米の餌食となったマカオで
人々の白骨をかつて 照らしていたということを
楽しい酒の場で美しい光景を見ていても、橋本景岳の眼には、国の独立を失い、悲惨な運命に苦しんでいるアジアの国々の光景が、日本の未来と重なり合って見えた。
西郷が「とても及ばない」と言った橋本景岳の国家観と世界観は、その後の歴史を見れば、いかに正確に見ていたか、今を生きる日本人としても感心するばかりである。
橋本景岳
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