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鹿児島県の「奄美大島」は沖縄と九州の間に位置する。
大東亜戦争後、連合軍の占領下になった日本は、北緯29度より南の沖縄諸島を含む島々が米国の信託委任統治下となり、日本の領土から外された。
これにより日本本土と奄美大島の連絡は途絶え、日本人でありながら本土との往来は禁止された。生活物資、食料、新聞も本土から入ってこなくなった。
昭和26年、奄美大島で「日本復帰協議会」が結成されると、教育者であった泉芳朗(いずみ ほうろう)が議長になった。泉芳朗は後に「日本復帰の父」と呼ばれて慕われた。
泉は復帰のために署名運動を行った。島民の99.8%の署名を集めたが米国は動こうともしなかった。
泉は「復帰市民大会」を各地で行い、「これがわれらの祖国日本の旗です」と当時禁じられた日の丸を見せて鉄の意志を示した(上の画像:泉の銅像)。
この時、「我々と生まれてきた子供達、これから生まれてくる子供達が日本人として生きていけますように」との願いを込めて『日本復帰の歌』を作った。この歌は今も奄美大島では歌い継がれており、日本民族の魂の叫びのような歌である。
日本復帰の歌
1、太平洋の潮の音は わが同胞の血の叫び
平和と自由を慕いつつ 起てる民族20万 烈々祈る 大悲願
2、われらは日本民族の 誇りと歴史を高く持し
信託統治反対の 大スローガンの旗の下 断固と示す 鉄の意志
3、目指す世界の大理想 民族自決独立の
われらが使命貫きて 奄美の幸と繁栄を 断乎護らん 民の手に
4、20余万の一念は 諸島くまなく火と燃えて
日本復帰貫徹の のろしとなりて天を焼く いざや団結 死闘せん
民族危機の秋ぞ今
さらに泉は「断食で訴えよう」と、自ら断食祈願を行った。泉はもともと肺を病んでおり、数日前から体調を崩していて、しかも奄美の猛烈な夏の暑さが襲いかかる中、決死の覚悟で坐して祈り続けた。
このことが全島民に広まり、14歳以上の島民のほとんどが断食を行った。この断食はその後も何度も繰り返された。
昭和26年9月8日、サンフランシスコ講和条約が調印され、日本国は独立を遂げた。しかし奄美大島は引き続き米国の委任統治下として復帰できなかった。
ある時、泉は両手に日の丸を掲げて子供達にこう教えた。
「心に日の丸を立てよ。心に日の丸を持つことこそ、日本人として明日からの生きる力になるんだ」。
しかし、これによって泉は米軍に連行されて、厳しく追及された。
その後、泉は名瀬(なぜ)市長に当選すると本土に出向き、吉田首相、鳩山一郎、米国大使と会見して、祖国復帰を訴えた。
また、島民の中には本土に密航してまで訴える人がいた。やがて島民達の切実な願いは吉田首相を動かすことになる。
そして、昭和28年12月25日の午前零時に奄美大島は正式に日本に復帰した。
地元新聞『南海日日新聞』にはこう書かれた。
「ああ、われらは還った、日本に還った。この瞬間、われわれ奄美20余万の郡民は日本人となった。日本人でありながら日本人でなかった民族の流転史に終止符を打った。苦しかった8年、長かった8年、血を吐いて独立を叫んだ幾多の犠牲死を出したこの8年。
日本人としての新しい日が、新しい朝が明けたのだ。朝もやの軒並に日の丸の旗がはためき、町から村へ、旗風は喜びを呼び、また喜びを呼んで島の新しい第一日は、明け放たれた」
日本人でありながら日本から切り離されて、「心に日の丸を立てよ」という教えも禁じられてきた奄美大島の人達がすぐにしたことは、家にしまい込んでいた「日の丸」を取出して振り続けることだった。
その顔は「日本人である」という民族の誇りある顔であった。
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