記憶にある昭和天皇の記者会見。
私の子供のころの昭和天皇の記憶と言えば、TVで陛下が「あ、そう」とよく言われていたことを覚えています。どういう場面だったか、勲章授与の後の受勲者との会話かなにかだったかもしれません。
小林よしのり著「昭和天皇論」では小林氏も子供の頃その印象があったようで、小林氏の父親が昭和天皇の「あ、そう」というモノマネをして、自分もそのモノマネをすると母親に「不敬な」と叱られています。小林氏は私より一回り年上ですので、昭和天皇は国民と会話するとき、長くそのようなスタイルだったのでしょう。
あと覚えているのがTV放送された記者会見です。史上初と言っていました。最近になって調べてみると米国へ訪問して帰国したときの記者会見だったようです。それまでは戸外での立ち話形式の会見しかなく、昭和20年(1945年)9月にアメリカ人記者による記者会見が初めて報じられ、日本人記者による記者会見は同年12月に初めて報じられています。以降、年に一、二度記者会見を行うようになります。会見内容は日ごろの生活に関するものや巡幸の感想などでした。陛下が回顧的な話をされたのは昭和24年(1949年)10月6日の記者会見で皇太子時代の外遊について述べられました。昭和36年(1961年)4月24日の記者会見では還暦を迎えて皇太子時代の欧州訪問の思い出を語られました。戦争に関わるご発言が出たのは昭和38年(1963年)8月29日の記者会見で戦没者追悼式の感想を聞かれて「感慨無量」とお答えになられています。
昭和50年(1975年)9月22日、昭和天皇は訪米を前に外国人特派員団33人と会見しました。それで国内報道陣も公式記者会見を強く望み、訪米後に国内報道陣と史上初の宮中での公式記者会見が行われました。このときにこんな問答が行われています。(昭和50年10月31日)
記者「ホワイトハウスにおける『私が深く悲しみとするあの戦争』というご発言がございましたが、このことは、陛下が開戦を含めて、戦争そのものに対して責任を感じておられるという意味と解してよろしゅうございますか。また、いわゆる戦争責任について、どのようにお考えになっておられますか」
これはホワイトハウスでフォード大統領主催の晩餐で陛下が挨拶されたとき「私が深く悲しみとするあの不幸な戦争の・・・」と述べている部分があり、これを英文でdeplore(1 …を(痛烈に)非難[批判]する, とがめる.2 …を深く悔いる, 遺憾に思う, 〈人の死などを〉嘆き悲しむ, いたむ.)と訳したため、解釈論争が起きたことが背景にあります。藤山駐米大使は「ただ"悲しんでいる"という意味である」と説明しています。
昭和天皇「そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究していないので、よくわかりませんから、そういう問題についてはお答えできかねます」
言葉のアヤでなんとでも報道するマスコミやイデオロギー利用されるのを避けた妥当なお答えでしょう。
記者「戦争終結に際し広島に原子爆弾が投下されたことを、どのように受け止めれられましたか」
昭和天皇「原子爆弾が投下されたことに対しては遺憾には思っております。こういう戦争中のことですから、どうも、広島市民に対しては気の毒であるが、やむを得ないことと私は思っております」
これもこの部分のご発言だけを摘んだり、言葉のアヤでさまざまな解釈が行われアレコレ言われる類のものです。映像をチェックしてみると昭和天皇は困惑気味に言葉に苦慮されお答えになられている御様子が伺えます。そもそも、訪米直後に米国を非難するご発言などできようはずがなく、記者の質問は極めて非常識でありましょう。陛下の御心は「終戦の勅書」にある通りです。
このほか、記者から「テレビはどんなものをご覧ですか」と聞かれ「放送会社の競争がはなはだ激しいので、いま、どういう番組を見ているかということにはお答えできません」と答えられ、会見会場が笑いに包まれたりしているところが印象的です。
参考文献
幻冬舎「昭和天皇論」小林よしのり(著)
講談社学術文庫「昭和天皇語録」黒田勝弘・畑好秀(編)
中公新書「昭和天皇」古川隆久(著)
添付画像
昭和50年、昭和天皇、皇后両陛下のアメリカ訪問。ホワイトハウス内。(PD)
1975 昭和天皇初訪米&初公式記者会見
http://www.youtube.com/watch?v=4b6VuxlBUYI
http://www.youtube.com/watch?v=4b6VuxlBUYI