それぞれの人生
事業に苦戦しながらも結果を残した元皇族もいた。
賀陽宮恒憲(つねのり)王は戦前から「野球の宮様」として知られており、
賀陽宮恒憲(つねのり)王は戦前から「野球の宮様」として知られており、
皇籍離脱後は好きな野球を事業化させた。自ら主将になって六大学野球の
ベテランを加えてチームを発足させたものの、やはりうまくいかず、
解散となった。しかし引揚者や戦災孤児のための社会福祉事業は続けられ、
昭和45年(1970)に長野県に特別養護老人ホーム「敬老園」を完成させて
理事長に就任した。
一方、朝香宮鳩彦(やすひこ)王は、皇籍離脱した十一宮家の当主の中でも
、安定的な生活を手に入れ、ゴルフ三昧の余生を過ごした旧皇族である。
「ゴルフの宮様」として知られる鳩彦は皇籍離脱前から毎週ゴルフをたしなみ
「ゴルフの宮様」として知られる鳩彦は皇籍離脱前から毎週ゴルフをたしなみ
、暇を見つけては自宅の庭でシヨートアプローチの練習に明け暮れていた。
離脱後は白金の宮邸を外務省に貸し、自らは熱海の別荘に移り住み、
五十余ものゴルフクラブの名誉会長を務め、昭和56年(1981)に90歳で
亡くなるまでの間、ゴルフに打ち込む毎日を過ごしたという。
皇籍離脱時に若年の当主だった伏見宮博明王と北白川宮道久王は、
いずれも大手企業に就職した。15歳で皇籍を離れた伏見博明は米国留学を
経てモービル石油に入社〔既に退職〕し、また10歳で皇籍を離れた北白川道久
は東芝に入社〔既に退職〕し、現在は神宮大宮司を務め、清子内親王殿下と
黒田慶樹氏の結婚式では斎主を務めている。
黒田慶樹氏の結婚式では斎主を務めている。
伏見家と北白川家は、いずれも当主が若年だったため、周囲に乗せられて
事業に手を出すことがなく、それが幸いして他の旧宮家のように事業による
痛手をこうむることはなかった。
精力的に事業に着手した家ほど惨めな結果になっていることからして、
やはりそれまで商売にかかわったことがない者がいきなり成功するほど
世の中は甘くはないということだろうか。ただし、これは偶然にも、事業に
失敗した家ほどたくさんの子孫に恵まれているとみえる。
久邇家、賀陽家、東久邇家は、現在はいずれも大家族である。特に
東久邇家では、昭和18年、稔彦王の第一王子である東久邇宮盛厚王と
昭和天皇第一皇女照宮茂子(てるのみや)内親王との結婚が成立し、
昭和天皇の外孫を三人儲けるに至ったことは既に述べた。
皇籍離脱時の当主たちのその後を眺めてきたが、彼らの息子たちの世代に
なると、若年当主二人と同様に、ほとんどが大企業に入社した。竹田家でも
同様で、私の父の代の男子三人は皆大企業に勤務した。ただし、私の父
だけは企業を退社して自ら会社を興し、現在はその会社の社長と日本
オリンピック委員会(JOC)会長を兼務しており、他家の同世代の中でも
異色といえる。
私の世代についても、やはりほとんどが大手企業に勤務している。年齢的
には20代前半から40代半ばまでの広がりがあり、男系男子だけを挙げると、
久邇家に三名、賀陽家に一名、朝香家に一名、東久邇家に三名、竹田家に
五名の合計十三名がおり、そのうち八名が独身である。
ちなみにその八人の内訳は、久邇家に二名、東久邇家に一名、竹田家に
五名となっている(平成17年12月現在)。私の世代はまだ若い人が多いだけ
あって、既に男児を儲けた人は少ないが、それでも私の一つ下の世代に、
賀陽家に二名、東久邇家に一名、合計三名の男系男子がいる。
前出の久邇朝宏は月刊誌の取材で「サラリーマンにならないと食べて
いけないことは子供のころからわかっていました。そのあたりは、普通の
家庭と変わりがありませんよ」(同前)と語っているが、軍人だった元皇族が
会社勤めに転じることは容易ではないものの、下の世代の元皇族や、
その子孫たちは、企業に勤務することに何ら抵抗がなく、離脱時の当主の
次の世代になって完全に社会に溶け込むことができたわけである。
竹田恒泰著 「皇族たちの真実」より
竹田恒泰著 「皇族たちの真実」より