さまざまな事業を展開
稔彦は事業に没頭した。その第一歩は新宿西ロマーケット、いわゆる
闇市での食料品店「東屋」開業である。周りの店は違法な闇米などを
取り扱っているものの、元首相、しかも元皇族が違法な商品を扱うわけ
にいかず、周囲の店とは競争にならず、商売はたちまち立ち行かなくなる。
店の半分を改装して喫茶店を、また続けて洋裁店を開業するも、いずれも
軌道に乗らず閉店。稔彦は懲りずに美術品店を開業するが、これも商売に
ならず、またこれらと平行して「東洋行」という会杜を設立して洋モク(煙草)の
輸入を目論んだものの、総司令部の許可が下りずに中止に追い込まれた。
その後は明治生命相互保険会社の三多摩地区総代理店の総責任者と
なった。その後、稔彦は小原竜海と名乗る怪僧にのせられて新興宗教の
教祖に祭り上げられ、さらに資金まで騙し取られてしまう。稔彦は後に
月刊誌の対談で、この件について次のように語っている。
「〈金銭を〉とられましたね。坊さんにたくさんやったんですよ。それで
わたしは、あのために「ひがしくに教」で冷やかされたり、悪口をいわれる
ばかりでなく、カネもずいぶんとられたのです。物心両面で非常に打撃を
うけました。〈中略〉あれはまったくわたしの不明のいたすところで、
一生の不覚でした」(『文嚢春秋』68年1月号)
そして稔彦は昭和天皇の最期を見届けると、平成2年(1990)に102歳で
亡くなり、その波乱に富んだ生涯を閉じた。
その他に事業で苦労したといえば、久邇宮朝融(くにのみやあさあきら)王
もその一人である。皇籍離脱時に久邇宮は11人という大家族〔京都の分家
を含む〕で、一時金も最高額の944万円であった。しかし、間もなく着手した
事業は東久邇家同様、苦労が多かったと伝えられている。
久邇朝融の三男朝宏(あさひろ)はその頃の様子を月刊誌の取材に対し
「子供ながらに、父が事業に失敗して、家がだんだん傾いていくのは
「子供ながらに、父が事業に失敗して、家がだんだん傾いていくのは
わかっていました」(『文藝春秋』05年3月号)と語っている。
事業で苦労したのはその二人だけではない。閑院宮春仁王は本格的に
事業展開し、苦汁をなめた旧皇族である。三都和合名会社、神戸観光会社、
春日興行、春日倉庫、親切タクシーなど次々と会社を立ち上げたが、どれも
赤字だったという。
神戸観光はホテル業で、閑院宮の箱根強羅の別荘を現物出資して始め
られたが、失敗に終わる。現在は他人の手に渡り、広大な庭園にツツジが
咲き誇ることで有名なホテル「強羅花壇(ごうらかだん)」となっている。
春仁は後に純仁と改名している。
竹田恒泰著 「皇族たちの真実」より
竹田恒泰著 「皇族たちの真実」より