オリンピツク開催に尽カ
皇籍を離れた後の恒徳の半生において、最も意義のある事業を挙げると
すれば、何といっても東京・札幌両オリンピツクの招致と実施であろう。
昭和28年(1953)から日本オリンピック委員会(JOC)の委員になっていた恒徳は
、昭和33年(1958)、JOCの中で国際スポーツ界に関係の深い人々と手分けをし
、東京オリンピツクの招致運動を展開した。東京は4年前にも立候補をして
いたが、ローマに破れていた。昭和33年11月、恒徳はヨーロッパ十四か国を
駆け回り、有力な国際オリンピック委員会(IOC)委員に日本での開催を訴えて
回った。
説得に訪れたIOC委員には、リヒテンシュタインのフランソワ・ヨセフ国王や、
モナコのピエール殿下(レニエ国王は元IOC委員)などの王族も含まれていた
モナコのピエール殿下(レニエ国王は元IOC委員)などの王族も含まれていた
。昭和34年(1959)、ミュンヘンで開催されたIoc総会にて、東京でのオリンピツク
、開催が決議された。アジアで初めてオリンピックが開催されることになった
のだ。恒徳はJOC委員長、そしてオリンピツク東京大会組織委員会副会長に
就任し、昭和39年(1964)の東京オリンピック開催に向けて尽力することになる。
昭和39年10月10日の東京オリンピック開会式の朝、前夜からの雨はすっかり
やみ、すがすがしい秋晴れに恵まれた。「天皇晴れ」である。恒徳は開会式に
御出ましになった天皇・皇后両陛下(昭和天皇、香淳(こうじゅん)皇后)の後ろで
説明役を務めた。オリンピックの開会式は選手の入場行進で始まった。この
行進で各国の選手団は開催国の元首に対して敬礼するのが慣わしであり、
この日は昭和天皇が選手の敬礼を御受けになる。しかし東京オリンピックに
参加した国と地域は九十四に上り、入場行進はかなり長い時間を要した。
そこで恒徳は、天皇がずっと御立ちになっていらっしゃったら御疲れになると
思い、国旗が御前を通るときには御立ちいただき、長いデリゲーションのときは
少し御休みになるように昭和天皇にお願いした。しかし昭和天皇は「国によって
差別をするのはよくない」と仰せになり、終始御立ち続けになられた。恒徳は
このときのことを後に「陛下は何事についても常に一視同仁(いっしどうじん)
であられる。
この時もまさにそのご姿勢で貫き通されたことは感激の極みであった」と記した
。東京オリンピツクがオリンピツク史上に残る大成功を収め、日本の歴史に
輝かしい一ぺージを添えることになったのは、ここであらためて語ることもなか
ろう。東京オリンピックは敗戦から復興を遂げた日本の初めての国家的イベント
であり、この成功は日本が国際社会に復帰したことを象徴するものだった。
東京でのオリンピツク開催が決定した後「冬のオリンピツクも日本で」という声が
高まり、札幌が立候補したものの、わずかな票しか取れずに落選。開催地は
フランスのグルノーブルに決定した。当時、冬季大会の開催地として札幌は
世界的に馴染みがなく、日本に雪が降ることすら疑われていたという。
しかし恒徳は諦めなかった。次の冬季大会はきっと札幌に誘致すると決意し
、ヨーロッパから中南米まで駆け回り、日本のウィンタースポーツの実情と
札幌の情報をIOC委員にアピールする。そして昭和41年(1966)にローマで
開かれたIOC総会で、ついに昭和47年(1972)の冬季大会の開催地が札幌に
決定した。恒徳はオリンピック札幌大会組織委員会副会長兼実行委員長と
して大会の開催準備に当たり、また昭和42年(1967)にはIOC委員に、そして
昭和46年(1971)にはIOC理事にそれぞれ就任した。
IOCはオリンピック大会の、主催者であるだけでなく、オリンピック・ムーブメント
を推進してアマチュアスポーツを正しく発展させる役割を担っている。そして
IOC委員は、IOCが適当と認めた人が任命され、その国に大使として派遣される。
したがって、IOC委員はその国の利益代表ではなく、これが国連などと異なる。
恒徳は、「私はそのことが国際的なスポーツの振興に最もふさわしい姿であり、
〈中略〉IOCが長続きしていきている、重要な特色の一つであると思っている」
と記した。
昭和47年2月3日、札幌オリンピックの開会式が行なわれた。アジア初の冬季
オリンピックである。当日の朝は雪が降っていたのだが、開会式直前に会場
の上だけが窓を開けたように明るくなり、昭和天皇が御到着なさる頃には、
太陽がカンカンと照りはじめ、眩しいほどになったが、開会式が終わると雪が
降り始めた。東京オリンピツク開会式と同様、札幌オリンピツク開会式の
この日も「天皇晴れ」として記憶されることになる。また外国人の間にも
「エンペラーズ・ウェザー」という言葉が有名になった。
竹田恒泰著 「皇族たちの真実」より
竹田恒泰著 「皇族たちの真実」より