竹田家のその後
民間人となった旧皇族五十一人は路頭に迷った。自分たちの収入は自分たち
で確保しなくてはならなくなったからだ。しかし旧皇族たちはこれまで自分でお金
を稼いだことはなかった。
うまく社会に溶け込み、早い段階で自らの居場所を確保した人もいるが、
事業に手を染めるもことごとく失敗を重ねた人、新興宗教の教祖に祭り
上げられた人、詐欺に遭って財産を騙し取られた人、選挙に出て落選した人
、離婚した人などなど世間の荒波にもみくちゃにされた人もいた。
竹田恒徳は、皇族として特別扱いされることに抵抗心を抱いていたため、皇籍
離脱について「まさに渡りに舟といってもよいところ」としたが、「だが、実の
ところ、生まれてこの方、一人で生きていく道など一度も教わったことのない
私としては、ただただ戸惑ったの一語につきる」とも記しており、皇籍離脱後の
困惑ぶりが分かる。
竹田家の財産は622万円とされ、それに465万円の財産税が課されていた。
高輪の竹田宮邸にあった洋館は政府に貸し出され、商工大臣官邸として
高輪の竹田宮邸にあった洋館は政府に貸し出され、商工大臣官邸として
使用されたが、後に広大な敷地ごと西武鉄道に売却され、高輪プリンスホテル
となった。当時の洋館は今も、ホテルの貴賓館として使用されている。
後年、ジャーナリストで作家の猪瀬直樹氏が竹田恒徳にインタビューした記事で、
邸宅を西武に売ったのはどういう考えからですか、との問いに対し、恒徳は
「持ちきれなかったということですよ。それに、西武は西洋館を潰さないで
大切に使ってくれるといっておりましたから。
跡形もなく消えちゃえば淋しいけれど、実際、いまだに西洋館は残っています
からね。嬉しいことですと答えた。これまであてがい扶持で生活してきた者に
金儲けができるわけがなく、また自分は兵隊をしていたために、何をやっても
武士の商法になってしまうと考えた恒徳は、終戦から3年間は何もせずに様子
をうかがうことを決めた。
各旧宮家には皇籍を離れるに当たっての一時金が与えられており、その資金で
売り食い、つまり「タケノコ生活」をすることができた。竹田家に支給された一時
金は544万円だった。この一時金は一人ずつ身分によって当主、当主以外の王、
内親王、親王妃とそれぞれ金額が定められたものであり、人数の多い宮家は
高額であった。
政府は当初4900万円を予算化していたものの、総司令部の指示により、
元軍人だった皇族には与えてはいけないとされ、宮妃だけが支払いの対象と
された梨本宮、閑院宮などは105万円という低額にとどまり、また山階宮は
当主一人であった上に元軍人であったことで、一時金はなしとされた。
だが、元皇族の周囲にはその資金を目当てにうまい話を持ちかける人が
後を絶たなかったという。恒徳はその全員に面会して話を聞くも、全て断った。
それらの事業経過を追ってみると、成功したものはほとんどなかったようだ。
そのときの苦悩は次のように記されている。
「この浪人生活の三年間は私にとって、いままでで一番辛い時期であった。
朝起きても今日一日なにをして過ごしたらよいか、当てがない。もったいない
朝起きても今日一日なにをして過ごしたらよいか、当てがない。もったいない
ような話だが、仕事のないことぐらい苦しいことはない」
(竹田恒徳『私の肖像画』)
竹田恒泰著 「皇族たちの真実」より
(竹田恒徳『私の肖像画』)
竹田恒泰著 「皇族たちの真実」より