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[転載]臣籍降下の伝達 「占領下の皇族」

臣籍降下の伝達
 
 
昭和21年11月29日、御召により皇族一同が参内し、十一宮家の臣籍降下を
伝えられる。昭和天皇からは「諸般の情勢上秩父、高松、三笠の三宮を除き、
他の皇族は全員臣籍に降下することが妥当であるような事情に立ち至った。
まことに遺憾ではあるが、了承せよ。その時期は多分来年早々くらいであろう」
との御話があった。

閑院宮は臣籍降下に反対であったが「情勢ここに至り、ことに陛下のおことば
もある以上は、いっさいの意見をすてて、虚心に事態に従うことにやぶさかで
はない」と自らの考えを改めることになった。「諸般の情勢」とは総司令部の
意向を意味する。閑院宮はこの「諸般の情勢」について後に「それが皇室
縮小方針、ひいては日本弱体化政策の一環であることは明らか」と述べている。

臣籍降下が告知されたこの日、梨本宮妃伊都子(いつこ)は日記に
「ほんとに、陛下の御心中、御さっし申上ると、胸もはりさける思ひ。
もう、(私どもは憲法発表、皇室典範の事など新聞ですでにみてゐるから、
もうどうせ臣下にならねばならぬと覚悟はしてゐるが、実に何ともいへぬ
心もちである)」と記した。また伊都子妃は年末と年明けにも次のように
不安な気持ちを書き記した。
 
「ことしのごとく、色々の事に出合ひ、変化の多いとしは、すくない。心の内
のなやみは、ことに大きく、これから又、一大転落せねばならず、急転直下、
墜落の運命も、ま近くなってをるから、其先はいかになる事やら。老年に
なって、ずい分ひどい目に逢ふもの哉。しかし、まづ丈夫にすごせた
事をよろこぶ」(昭和21年12月31日付)
「老年になって、手足はもぎれ、家はやかれ、其上、身分まで落下しなくて
はならぬ。谷そこにつきおとされる様。これでも生てゐられるかしらん」
(昭和22年1月12日付)
 
皇籍離脱は形式上、それぞれの皇族が自らの意思により皇籍を離脱する
ものとして扱われることになり、昭和22年の5月になると、「最近の国情に
鑑(かんが)み、深くその趨(おもむ)くところを察し、今後は皇族の身分を離れ、
皇室の外に在って、皇運を輔(たす)け、世務に尽したいと思います。茲に
謹んで皇室離脱の情願を陳べ、微衷を容れ給わんことを冀(ねが)います」と
いう宮内省が起案した請願書に皇族が各々署名した。

昭和22年5月3日、新憲法が施行された。これにより、皇族の臣籍降下に
先立ち、華族制度が完全に廃止され、およそ四九〇家の華族が爵位と
財産上の特権を失った。そして、皇族に順ずる待遇を受けていた朝鮮王
公族の李王家も廃止となった。赤坂にあった李王家本邸は、昭和29年(1954)、
西武グループ会長で衆議院議長でもあった堤康次郎に売却され、現在は
赤坂プリンスホテルとなっている。

新憲法が施行された日、新皇室典範と皇室経済法が同時に施行された。
この二つの法律の立案作業は、十一宮家が近々臣籍降下することを前提と
して進められてきたものである。皇族の範囲をどのように規定するかは議論が
噴出したが、最終的に新典範では永世皇族制を採用して何世代下っても
皇族の子供は皇族となることにした。
 
このようにして皇位継承者を確保した上で、また一方では皇籍離脱を容易に
して皇族の数が増え過ぎないようにするための仕組みを用意した。旧典範
では天皇の庶子にも皇位継承権が与えられていたが、新典範ではこれは
否定され、皇位継承は嫡出子に限ることとされた。

また旧典範に規定された皇族会議は廃止され、新典範では新たに皇室会議が
定められた。旧典範では成年皇族男了全員が議員であったのに対し、新制度
では議員の定員が定められ、選挙によって任命されることになった。そして
10月13日に皇室会議が開かれ、翌14日を以って十一宮、五十一人が皇族の
身分を離れることが決議された。その日、各宮家に「御意思に基づき、皇族
会議の議を以て、皇族の列を離れさせられることに決定いたしました」と松平
宮内大臣から報告があった。この日皇族の身分を離れたのは
次の五十一人である。



続く


                                                   竹田恒泰著   「皇族たちの真実」より


転載元: サイタニのブログ


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