最近、「左翼」について述べさせていただきました。
近年の左翼は、「地球市民」「市民活動家」と名を変え活動しているようですが、我国のお国柄とは相容れぬ、邪悪な思想であるようです。
激動の時代における変革には、殺戮・謀略などは避けられません。人間がすることだからです。しかし、明治維新の犠牲者は、わずか2~3万人程度と言われます。これに対し、フランス革命は、犠牲者200万人といわれ、ロシア革命に至っては、さらにこれに数倍すると見られています。中国の人民民主主義革命においては、日支戦争における死者よりも、内戦による死者の方が遥かに多く、その数は1千万人を超えると見られています。
この違いは何処から来るのでしょうか。
拙稿をご覧いただいています皆様は、明治維新は白人列強がアジアを植民地にしてきたなかで、日本の独立を死守するための変革だったことはご存知だと思います。
日本人同士が分裂して争いを続ければ、必ず列強の介入・支配を受け、インドやシナと同じ運命をたどるという危機意識があったと思います。それが、できるだけ流血を少なくして、非西洋世界で初めての大変革を成功させた原因にあると思います。
徳川幕府最後の将軍・慶喜公は、朝廷との内戦を避け、政権を天皇陛下に返す道を選びました。世にいう大政奉還です。朝敵であるにもかかわらず、明治新政府に許された慶喜は、その後21人の子供をつくり、天寿を全うされました。
これは、フランス革命において、ルイ16世がギロチンで殺されたことと、対照的です。
徳川家の宗主・家康公を祀る日光東照宮も破壊されることなく、今日も多くの崇敬を集めています。
幕府の重臣・勝海舟も、維新後の時代を生き延びた一人ですが、海舟は、日本国のために、幕府に自ら幕を引かせました。とりわけ、列強につけいれられずに、日本の独立を死守するため、西郷南洲翁と話し合い、江戸無血開城を実現し、江戸市民百万の命が、それによって戦火から守られたのです。
しかし、海舟は主君・慶喜公に対しては、非常に申し訳なく思っていました。
徳川家の名誉を回復できるよう、尽力し続けたのです。その効あって、明治31年、ついに慶喜は、明治天皇陛下の拝謁を許され、温かいもてなしを受け、慶喜公は公爵に叙され、養子・家達(いえさと)は貴族院議長、孫・喜久子は高松宮妃となり、徳川家は今日も繁栄しています。
このことも、王族・貴族は子供まで惨殺されたフランス革命とは、大きな違いがあります。
江戸無血開城を実現したのですが、その際、重要な役割を果たした者に、山岡鉄舟がいます。本ブログの拙稿、命もいらず、名もいらず・・・・山岡鉄舟 でも述べていますが、鉄舟は海舟の命を受けて単身、陣中の西郷に談判に行き、西郷に海舟の意思を伝えました。そして、西郷と勝海舟の交渉を実現し、江戸無血開城を成功に導きました。
明治維新の英傑、西郷南洲翁は、山岡鉄舟のことを、
「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は始末に困るものなり。此の始末に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり」
と、『西郷南洲遺訓』に述べられています。
鉄舟は、維新後、西郷・岩倉・勝らの切なる推挙により、明治天皇の侍従となり、教育・補佐にあたりました。鉄舟は賊軍の幕臣出身でありながら、明治天皇陛下の養育を任じられたのです。
鉄舟だけに留まりません。
海舟らと意見を異にしたその一人、榎本武揚は、最後の最後まで抵抗する道を選びました。本州から北海道に渡った榎本は、蝦夷共和国を作って日本から独立。函館の五稜郭に立てこもって抗戦しました。しかし敗れ、榎本は降伏しました。フランス革命であれば、一族一味虐殺、シナでも同じ結果だと思います。
ところが、榎本と戦った官軍参謀・黒田清隆は、「日本の将来に欠くべからざる人物」だと惜しみ、榎本の助命に奔走。それが実って釈放された榎本は、抜群の能力を生かして、新政府で外務・農商務などの大臣を歴任し、新国家建設に活躍したのです。
榎本の助命の影には、西郷南洲翁がいました。榎本の命をとるまでもないと、度量を示したのです。
西郷南洲翁は一時、新政府の中心、首相格の筆頭参議となり、善政を行いました。そのとき、西郷南洲翁は薩長藩閥の枠をこえ、すぐれた人材は、旧幕府や敗北した藩からも登用しました。ジャコバンの指導者ロベスピエールが、反動派や意見の異なるものを次々に処刑し、恐怖政治を行ったのとは大きく異なります。
西郷南洲翁は薩摩勤王軍の先鋒として、荘内征討の軍を率いた人でした。荘内藩(現在の山形県)は徹頭徹尾佐幕に始終して、ある時には江戸の薩摩屋敷に焼打をかけ、遂には最後まで踏留れる佐幕派として、薩軍をその領地の入口にむかえてこれと戦ったのです。しかし、西郷南洲翁は激戦ののち、敗者の立場を思いやり、極めて寛大な処置をとられました。
その武士の情けは、荘内藩士を感激させ、彼らは西郷に深い敬愛を抱くようになりました。『西郷南洲翁遺訓』は、西郷南洲翁に接した荘内藩士によって伝えられたものです。荘内藩の子弟はこの遺訓によって訓練陶冶せられ、今日でも西郷南洲翁は当地の人々の尊敬を集めています。
西郷は、明治維新の最大の難事、廃藩置県を成功させた中心人物でもあります。西欧で廃藩置県のような「革命」をすれば、犠牲者数百万、争乱数年を避けられまいといわれます。それを「無血革命」で成し遂げたのが、明治維新なのです。そのとき旧階級である大名は、みな華族として身分・収入を保証され、旧家臣たちも、忠義が果たされ、安堵を得ました。
しかし、西郷南洲翁はいわゆる「征韓論」で敗れ、政府官僚の腐敗を憤って、郷里の鹿児島に帰り、西南戦争が起こりました。それは明治政府最大の危機であり、我国における最後の内戦となりました。敗れた西郷南洲翁は、「明治の逆賊」と言われました。
しかし西郷南洲翁は死後、明治天皇陛下の思し召しにより、正三位を追贈され、その功績を称えられたのです。南洲翁と対立し、紀尾井坂の変で暗殺された大久保利通卿は、生前の西郷から送られた手紙を入れた袋を持ち歩き、暗殺された時にも西郷南洲翁からの手紙を2通懐に入れていたと言われています。
東京上野には銅像が建てられ、今日も「西郷どん」として国民に慕われています。
これらの事例は、フランス革命には、決して見られないことばかりです。ロシア革命と比較しても同様です。シナの人民民主主義革命と対比しても、明らかに違います。
明治政府は、旧敵に対して復讐せず、かつての反逆者・朝敵の粛清や訴追をしませんでした。その淵源は、国民を「大御宝(おおみたら)」と呼んで大切にしてきた神武天皇以来の皇室の伝統に求められます。ここには、おのずと、日本人固有の精神、「日本精神」が表れていると思います。
我国は「和」の国であり、寛大・寛容な国です。これが「お国柄」でもあります。
明治以降の日本は、維新において戦った同士が遺恨怨念を超えて、ともに近代国家の建設に努力してきました。明治維新後、最大の危機であった日露戦争では、国民は一つになって、この国難を乗り越えました。私達の父祖達は、そのように日本人として大同団結し、同じ国民として一つに結び、近代という困難な時代を生き抜いてきてくれました。そのおかげで、今日の日本が、私たちがあることを、感謝しなければなりません。そして、わが国に伝わる共存調和の精神の素晴らしさを理解・継承しなければなりません。
日本全国いたるところに「神社」があります。
我国は「神の国」です、一国の総理が「神の国」発言で、反日マスコミに袋叩きにあいましたが、このことこそ荒廃・衰退した我国の惨状を顕著に語っています。
精神という文字はシナに既にあった漢語外来語ですが、シナでは元来は元気やエネルギーという意味でした。
しかし、我国では、心、意識、気構え、気力、理念といった意味をもっています。
しかも、「神」の文字が当てられています。
日本人が古来より、心に神を抱き、神に恥じない行いをしてきた証しでもあります。
「地球市民」「市民活動家」と名を変えた「左翼」たちはには、祖先を崇拝し、神を崇敬する心はありません。
あるのは、自己保身、我欲のみであり、人命、人権などは素よりないのです。
祖先から連綿と流れる「日本精神」、「清き明き心」を取戻して欲しいと願ってやまないのです。
那智の瀧(浦安の舞)