天皇制は残ったものの・・・・
総司令部が皇族の財産上の特権を剥奪する指令を出す直前の昭和21年
5月19日、宮内次官に新任したばかりの加藤進は、沼津御用邸で皇太后
(貞明皇后(ていめいこうごう)、大正天皇皇后)に拝謁し、皇室を巡る状況に
ついて言上した。
加藤次官は、総司令部との折衝に当たるうちに必ず皇族廃止問題が起きる
であろうこと、そうした要求が総司令部から出てくる前に先手を打って直宮
(じきみや)(昭和天皇の弟宮である秩父宮、高松宮、三笠宮)以外の皇族方の
臣籍降下を申し出ることで、直宮だけは確保するべきであること、そして皇族方
のお恨みを受けることを覚悟で皇族の臣籍降下について両陛下の諒解を得た
ことなどを話した。
皇太后からは「〈私は〉どんな苦労でも引き受けます。〈中略〉しかし、皇族方
はなかなかそうはいきませんよ。びっくりもするでしょうし、いろいろなことも
仰しゃるでしょうし、なかなかお分りにならないと思います。どうかじっくりと
時間をかけ、御納得いただけるまで、あなたの方が落ちついて、気を長くして
やらねばなりませんよ」との御話があり、「御一新〈明治維新〉前に戻ったと
思えばよい」と仰った。皇太后はこのとき、御自らも臣籍降下の対象として
御覚悟なさっていらっしゃったと思われる。
加藤次官ら宮内官僚はかなり早い段階から皇族の大半の臣籍降下は
避けられないことととらえていた。昭和20年12月に梨本宮が戦犯として
逮捕されてから、加藤は臣籍降下の具体的な検討を始めた。加藤は
「とにかく天皇とお直宮を守ることが絶対に必要だった当時の状況から
考えたとき、ぜひとも臣籍に自ら降下していただく以外にはありません
でした」と後に記している。
昭和20年の大晦日には、総司令部民間情報教育局(CIE)が 天皇制を残す
方針であることを記した「ダイクの意見書訳及び賠償に関する意見書」が、
当時侍従次長の職にあった木下道雄(きのしたみちお)の許に届けられた。
「ダイク」とはケン・ダイクCIE局長のことである。ダイク意見書は冒頭で
「一、日本天皇の存続確立」と明記し、「如何なる場合に於ても 天皇の存続は
絶対必要なりとの主張あり」と記されていた。ダイク意見書はその他にも、
天皇は政治に関与しないこと、華族制度を廃止すること、皇室財産を解放
すること、天皇・皇族の歳費は国会の議決を経ることなど、総司令部が想定
する民主化された日本の姿が述べられていた。これらの事項は間もなく新憲法
の公布などによって実現することになる。
意見書の内容が 昭和天皇に上奏されたのは翌昭和21年元旦の夕方だった。
この報せは、あるいは 天皇の側近たちを終戦後最も喜ばせたかもしれない。
なぜなら 天皇の存続に関する総司令部の方針が活字で示されたのはこれが
初めてだったからだ。これまでもたらされた情報として、は、米内光政海相が
昭和20年10月26日にマッカーサー元帥と会見したときに元帥が「自分は
天皇の地位について、変更するという考えは持っていない」と発言したのを
伝え聞いたのみであり、またその後に梨本宮が戦犯として逮捕されたことも
あって、天皇制の存続について、側近たちは半信半疑になっていた。
ところが、このダイク意見書には重要な条件が付け加えられていた。その
条件とは「今上天皇及び男子御兄弟御三方の皇族としての已存権を確認す」
であった。つまり、天皇と三直宮以外の全ての皇族に臣籍降下させることを
仄めかす内容にほかならなかった
。
。
教育基本法の制定過程などと同じく、皇族の臣籍降下に関しても、
総司令部はあたかも日本側が自主的に改革しているかのような体裁を
取らせつつ、実はその後ろで、皇室財政を逼迫させるなどで臣籍降下
への圧力をかけていた。総司令部の日本占領政策は極めて巧妙だった。
加藤次官が皇太后に現況を報告して間もなくの昭和21年5月28日と同31日、
皇族情報懇談会という会議が開かれ、宮内省首脳部から皇族に対し、
特権剥奪や皇室典範改正の件などについて説明があった。加藤がこれらを
説明したのだが、その説明について不快感を顕にした皇族が多かった。
閑院宮は次のように記している。
「宮内当局の態度は甚だ煮えきらず、また皇室および皇族に関する重要
事項を、あらかじめ皇族にはかることなく、一方的に独断的に決めてしまい、
事後報告的に説明するという態度であったので、各皇族とも激越にこれを
難詰した。たしかにこの日の加藤次官の態度は、不誠実きわまるもので
あった」閑院宮は同年9月頃に宮内省は皇族の大半を臣籍降下させる
方針を固めたとも記している。
竹田恒泰著 「皇族たちの真実」より
竹田恒泰著 「皇族たちの真実」より