皇族特権の剥奪
総司令部は、皇室改革を占領政策の重要な柱として考えていた。天皇を含む
皇室全体を廃止するか否かについては、総司令部だけでなく米国本国を巻き
込んで大きな議論を巻き起こした。
しかし、マッカーサー元帥の強い希望があり、最終的には総司令部の手に
よって 天皇と皇室を廃止することはなかった。総司令部はその一方で、
皇室から多くの特権を取り上げ、皇室が政治に関与することができない体制を
つくり、さらには、皇室の規模を縮小させるといった皇室改革に着手した。米国は
日本を高度な民主国家にすることを目指しており、そのためにはこれらの
皇室改革が必要不可欠と考えたのである。
急速に皇室改革が進められる中、皇族方が最も恐れたのは、皇族としての
身分を失うことだった。皇族が皇籍を離脱して臣籍に降ること、つまり皇族の
身分を離れて民間人になることを「臣籍降下」といった。ただし、新憲法の
発布をもって「臣籍」がなくなったため、皇族が皇族の身分を離れることは
現在では「皇籍離脱」と呼んでいる。
皇族たちは大方この臣籍降下には反対の立場だったが、早い段階で臣籍降下
する旨を表明した皇族もあった。終戦処理内閣の首相を務めた東久邇宮も
その一人である。東久邇宮は昭和20年11月10日、新聞記者を麻布の仮御殿に
招いて臣籍降下の決意を表明した。東久邇宮は記者に次のように語った。
戦争がこのような結末になったことについて私は強く責任を感じている。
戦時中皇族は陛下に意見を申し上げることが禁じられていたものの、
陛下に対してなんら進言申し上げることをしなかったことについて道徳的
戦時中皇族は陛下に意見を申し上げることが禁じられていたものの、
陛下に対してなんら進言申し上げることをしなかったことについて道徳的
責任がある。敗戦に至ったのであれば道徳的責任を明らかにするため
皇族の特遇を拝辞して平民となることを決心した。もしそうしなければ
陛下に対し、また国家に対して申し訳けが立たない。首相の任を解かれた
直後、木戸内大臣と石渡宮内人臣を通して陛下にお願い申し上げた。
その後は「いま暫(しばらく)く時期を待て」との御沙汰を拝したのみで今日に
及んでいる。これは私一個の考えであるが、皇族は直宮に限り、あとは臣籍に
降下したらよいと思う。華族も全て爵位を拝辞したらよいと思う
(『朝日新聞』昭和20年11月11日付)
(『朝日新聞』昭和20年11月11日付)
また竹田宮も著書で「戦前は皇族の数がかなり多かったので、この非常事態に
皇室を守ってゆくためには、もっと簡素化した方がよいという考えをかねがね
持っていたと記している。賀陽宮(かやのみや)も臣籍降下への決意を固めて
いた。宮はシンガポール陥落の時点で既に敗戦を予測し、「敗戦になれば、
皇族は臣下になるのだから、覚悟するように」と子供たちに語っており、
「臣籍降下は、戦争で犠牲になった多くの国民たちへの償(つぐ)いである」と
賀陽宮妃敏子に話していたという。
しかし、臣籍降下論に強く反発した皇族もあった。閑院宮は臣籍降下に強く
しかし、臣籍降下論に強く反発した皇族もあった。閑院宮は臣籍降下に強く
反対した一人である。後に著書で「私も、皇族には皇族としての使命も役割も
あるのであって、臣籍降下のごときは、その使命を軽んじ自ら卑下して時勢に
おもねるものであるとして、反対した」と記している。閑院宮のほか、皇族の
ほとんどは臣籍降下に反対だった。
東久邇宮らの臣籍降下への動きは、これに反対する皇族たちを俄(にわか)に
不安にさせた。東久邇宮の決断に対して石渡宮内人臣は「問題が重大であり、
もう一度慎重にお考え下さるよう」と進言した。慌たて宮内省は11月22日、
臣籍降下は勅許されないことを発表、臣籍降下騒動は落ち着いたかのように
見えた。しかし、それも束の間だった。皇族たちの不安をよそに、総司令部は
皇室縮小への圧力を徐々に強めてきた。
続く
竹田恒泰著 「皇族たちの真実」より
続く
竹田恒泰著 「皇族たちの真実」より