国際法を守った日本。
明治17年(1884年)12月4日、朝鮮半島で独立の志士・金玉均(キム・オッキュン、きん・ぎょくきん)による甲申政変は失敗に終わり、日本と清の間で天津条約を結びました。
それから10年後の明治27年(1894年)、農民の反乱である東学党の乱が勃発。東学党は平等主義を掲げ、李朝の打倒を呼びかけます。李朝は鎮圧に乗り出しますが、東学党の勢力に押され、清国に応援を求めます。日本も出兵し、日清朝の交渉と睨み合いが続き、遂に日清戦争へと発展します。
日清戦争では日本は文明国として強く意識していました。背景としてアメリカとの不平等条約改正を交渉中だったことがあげられます。陸軍大臣・大山巌は「我軍は仁義を以て動き文明に由て戦ふものなり」という訓令を出し、兵士たちにジュネーブ条約解説書を配り常備携行させ、国際法学者を従軍させるなどの試みを世界に先駆けて行っています。明治天皇の宣戦の詔勅にも「いやしくも国際法にもとらざる限り」一切の手段を尽くすべしと仰せられ、国際法尊重を強く求めています。そして日本軍は国際法を尊重し、清国兵捕虜の処遇は実に懇切にしていました。
ところが、旅順戦において。『タイムズ』や『ニューヨーク・ワールド』が「旅順陥落の翌日から四日間、非戦闘員・婦女・幼児などを日本軍が虐殺した」と報じ、アメリカの上院が動き出しました。日本側もこの対応には苦慮しており、日本のマスメディアも反論につとめました。また、ベルギーの駐日大使のダネタンは
「その場(旅順)に居合わせたフランス武官・ラブリ子爵から直接聞いたところ、殺されたのは軍服を脱いだ兵士たちで、婦女子が殺されたというのは真実ではない。ほとんどの住民は占領前に避難しており、町に残っていたのは兵士と工廠の職工だけだった。日本兵は無惨に扱われた戦友の死骸を見ながら、何とか敵を捕虜にするだけにとどめた」
と、事実を報告し日本を援護しています。
ダネタンの「日本兵は無惨に扱われた戦友の死骸」というのは日清戦争では日本兵士は清国軍に捕らえられると虐殺され食われています。シナ人にはカニバリズムという人肉を食べる習慣がありました。鼻や耳をそがれた日本兵の生首が道路脇の柳や民家の軒先に吊されたりしたのです。清国軍は国際法を守ることはしないどころか、非人道的な行為を行っていたのです。
フランスの国際法学者フオーシーユは次のように日本軍を称賛しています。
「事実は、日本政府がその採択せる文明の原則を実行するに堪えることを示した。日本は日清戦争で敵が国際法の原則を無視したにも拘わらず、自らはこれを尊重した」
フランスのフィガロ紙の記者カレスコーとイリュストラシオン紙の記者ラローの従軍記には「大日本帝国が世界に対して誇るに足る名誉を有する」とし、栄城湾(山東半島)上陸は「毫末の乱るるなくして」整然と行われたことに感心し、上陸した村はずれの某家に「産婦あり。入るべからず」の掲示が出ているのを発見して、予想もしなかったことであると感嘆しています。
こうした史実にもかかわらず、3年前のNHK「坂の上の雲」で日本軍が支那の村を掠奪し、従軍記者に「兵隊さん、ありがとうと言っている。と書け」と強要したシーンがあったそうで、原作にはない非常に残念な捏造シナリオです。こうして我々は印象操作されているわけです。
参考文献
朱鳥社「日本人が知ってはならない歴史」若狭和朋(著)
PHP研究所「坂の上の雲のすべてがわかる本」後藤寿一(監修)
竹書房「世界が愛した日本」四条たか子(著)
オークラ出版「世界に愛された日本」『人道を愛した日本軍』桜林美佐
転展社「大東亜戦争への道」中村粲(著)
参考サイト
WikiPedia「日清戦争」「旅順虐殺事件」
添付画像
平壌の戦い(PD)