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[転載]東久邇宮内閣総辞職  「占領下の皇族」

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東久邇宮内閣総辞職  
 
 
昭和天皇が初めて米国大使館にマッカーサー元帥を御訪問になったのは
9月27日の午前中のことだった。当初、マッカーサーは、天皇は戦争犯罪者と
して起訴されないよう、命乞いをしに来るのではないかと考えていた。しかし、
マッカーサー元帥の回想によると、昭和天皇は政治と軍事の両面での全ての
決定と行動に対する全責任は自分にあると御話しになったという。

このときの昭和天皇とマッカーサー元帥が並んで写っている写真が新聞に
掲載されたのは会見から二日後の9月29日のことであった。しかしこの写真が
東久邇宮内閤を総辞職させる引き金になってしまう。この会見の写真は、
西洋式礼装であるモーニング姿の 昭和天皇と、開襟シャツのマッカーサー
元帥が対等に写ったものである。当時の日本人、特に内務省としては想像を
絶するものであった。

天皇の笑顔の写真ですら発禁の対象とされた時代である。敗戦の現実を
これほど分かりやすく表現し、国民に伝える写真はほかになかった。内務省は
この掲載紙を直ちに発行停止の処分にしたのだ。内務省の新聞発行停止措置は
総司令部を激怒させる。10月4日、日本政府に対して内務人臣の罷免要求を
行なうに至った。総司令部は言論および新聞の自由を、9月27日から実施する
ように命じていたこともあり、日本政府のこの対応に当惑したのだ。総司令部が
10月4日に差し入れた覚書は、内務大臣の罷免要求だけではなかった。
思想、宗教、言論、集会の自由に対し制隈をしている一切の法令の廃止を
命ずるとともに、内務大臣をはじめとする内務省の首脳、都道府県の警察部長、
特高関係者全員、合計約四〇〇〇名の免職を要求し、また政治および思想全
犯人の釈放を要求し、これに対して講じた措置の報告書を10月15日までに
提出せよという内容だった。

内務大臣は即日辞表を提出する。それを受けた東久邇宮首相はその夜のうちに
内閣を総辞職する決意を固めた。内務大臣をはじめ四〇〇〇名の官吏を免職
させることは、我が国の大事件であり、内閣はこれら多数の官吏を見殺しにする
ことはできない。彼らと運命を共にするべきと考えたのだ。しかも、マッカーサー
元帥との直近の会見で、元帥は大臣を替える必要はないと発言していた。にも
かかわらず、今日になって内務大臣の罷免要求を出してくるのは、元帥が内閣を
信用しないからであると東久邇宮首相は考えたのだ。宮はこの日の日記に」
こう記す。

「現在の状況では内閤独自の考えでは何事もすることができない。万事、連合
国総司令部の指令にもとづいてしなければならない。敗戦国日本として止むを
得ないこととはいいながら、こんなことでは、今後内閤が続いても何事もなし
得ないだろう。今後は英、米をよく知つている人が内閣を組織して、連合国と
密接な連絡のもとに政治を行うのが適当であろう。これらの理由で、内閣総
辞職するのがよいという結論に達した」
(東久邇稔彦『一皇族の戦争日記』)

翌10月5日、午前10時から閤議が開かれ、内闇総辞職が決定した。
東久邇宮首相は参内し、閣僚全員の辞表を 昭和天皇に奉呈した。
天皇の名で重刑に処せられた人々を、連合国の指令ではなく、天皇の名で
許すことが実現しなかったことは、東久邇宮にとって大きな心残りだった。

終戦の翌日に誕生した皇族内閣は、在職期間わずか54日という、我が国の
憲政史上類を見ない短命内閤となった。しかし東久邇宮内閤は見事に終戦
処理を成し遂げた。連合国による無血進駐が実現し、なんの混乱も起きずに
降伏文書の調印をみたことは、皇族内閤であって初めて可能だった。野球で
いえばワンポイント・リリーフといったところであるが、東久邇宮は見事に
この大役を成し遂げたのである。宮日記は10月9日の次の一文で終了している。

「本日、内閣総理大臣を依願免官となり、在職五十余日でやっと大任を
終ったので、川崎別荘に行き、久振りで休憩し、ぐっすり寝る」


            
 
                              竹田恒泰著   「皇族たちの真実」より




転載元: サイタニのブログ


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