世界全体に不況が襲い、我が国にはデフレ不況、震災、原発という幾重もの困難がのしかかっています。政府・マスコミは「少子高齢化のため今後我が国の経済成長は望めず、政府は財政破たんの危機にあり、大増税が不可避である。国民はひたすら経済不況に耐え忍び、節約に励め・・・」といった論調で語っています。
しかし、不況、不況と言いますが、この不況は何かおかしくないでしょうか?
まず私たちの目の前の現実を見ると、市場には製品が溢れかえっています。例えば、お店に行けば食料品も飲料水もその他生活物資も山のようにあります。家電量販店に行けば、テレビ、パソコン、携帯等々が所狭しと陳列されてます。在庫が積みあがってます。我が国全体として製品はあり余るほど沢山ありながら、お金を持たない人がとりわけ若い世代に多いので、それを使うことが出来ないでいます。
また、被災地では道路、港湾、学校・役所、ビル・住宅などの建設が必要とされていますが、復興に必要な資材はあるし(※円高のため海外から資源を購入することも比較的容易い環境にある)、重機もあります。長引く不況で重機を多く持たない建設業者もあるそうですが、重機を生産する力は十分にあります。エネルギー資源については、メタンハイドレードという海底資源が我が国にはあります。さらに、我が国は航空母艦でも、長距離ミサイルでも、長距離爆撃機でも、核兵器でも、作ろうと思えばつくる力はあります。
このように、一方であり余るほどの物資と十分な生産力があるというのに、私たちはただ「お金がない」という理由だけで「不況」で苦しんでいるのです。これが私たちが直面している「不況」の現実です。全く馬鹿げていませんでしょうか。
北朝鮮のように、モノを生産する力が根本的に欠如しているならば、いくらお金があっても豊かにならないことは理解できます。なぜなら北朝鮮ではいくらお金を持っていたところで、そもそも物資や製品が不足しているのだから、国民みんなに物資や製品が行き渡らせることができません。そんな状況であれば、それこそお金は紙屑同然で、価値がないと言えます。
しかし、我が国の場合は全く事情が異なります。日本は国家全体としてみれば、衣食住、さらに被災地復興、そして国防まで、自国の生産力でほとんど全部まかなうことができます。ほとんどどんなものでも、部品作りから、組み立て、完成まですべて自国でできてしまう――、こんな国は世界中探してもそうないはずです。我が国はそれほど豊かで素晴らしい生産力を持っているのです。
にもかかわらず、我が国は深刻な不況で苦しんでいます。
では、なぜこのようなデフレ不況に陥ったのでしょうか。谷口哲学に基づいて考えれば、私は根本的な原因は国民が恐怖心を抱いてしまったからだと思います。
バブルが崩壊した、あるいは不景気になったからと言って、国家全体として見れば、土地が消えたわけでもなく、紙幣が消えてなくなったわけでもありません。物資もお金もありながら、物質的な環境はそのままでありながら、恐怖心を抱いたために不景気になったのだと言えると思います。
そもそも国家全体のお金を合計すれば、(政府や中央銀行が貨幣を発行しない限り)基本的に同じだけのお金があるはずです。お金は使っても決して消えてなくなるわけではありません。政府が使っても、企業が使っても、家計が使っても、そのお金は必ず誰かの収入になり、お金の総量は決して減ることはありません。
むしろ、その効用を考えれば、お金は使えば使うほどその価値が増えると言えます。つまり、同じお金の分量しかなくとも社会に循環する回転率が増えるからです。10万円のお金でも世間をグルグル回って、1か月に10回自分の手に戻っては出ていくとすれば、同じ10万円でも100万円に生かして使うことができます。しかし、それを手許に死蔵しておくと、10万円が10万円だけの値打もない、何にも役に立たないということになります。
以下、私の尊敬する谷口雅春先生のご文章を抜粋します。
しかし、金を使って帰ってくるならだれだって使いたいが、使えばなかなか帰ってこないので万一の時に貯蓄しておくことが必要だという人があります。これが世間の一般的な考え方であります。「生長の家」では「心の法則」ということを常に申しまして、身体は心で思うようになるというのでありますが、経済界も心で思うようになるのであります。「金は使ったらなかなか帰って来るものではない」と一般の人が固く心で思っている。だから自分の手許へ金がはいってきたが最後、金輪際出すまいとがんばります。まちがった道徳家はそれを節約の美徳だとして推奨します。そこで流通と循環とが本体であるべき経済界に、金の流れをじゃまする詰まったところがあちらこちらにもできてきます。節約だといって、大金持ちまでが金をたんまりと持っていながら雇い人を解雇したり、人のつくったものを買わなくなったりします。こうなると、経済界は不景気になって出した金がなかなか手許に帰って来なくなります。すなわち心で思ったとおりになったのでありまして、実際の不景気が先に起こるのでなく心に起こった不景気が、つぎの形をあらわしたので、経済界も心のままになるのであります。
(中略)
経済界もこれと同じことでありまして、財を一箇所に停滞せしめないように根本からすれば問題はないのであります。なんでも一箇所に「積む」ということはよろしくない。これを日本人は太古からよく知っていた。だから古代日本人は「罪」を「積む」という言葉と同じ語源から作ったのであります。ところがたぶん外国からでありましょう、「節約」という言葉が輸入されてきました。これを日本語では「しまつ」といいます。「しまつ」というのは「しまる」ことすなわち「引き締める」ことでありまして、出口をくくってしまうことであります。出口をくくってしまうから財が循環できなくなる。循環しないで一小部分の人間のところに富が蓄積するから、ここに近代の資本主義経済組織ができあがったのであります。
マルクスは唯物史観を説きますが、「生長の家」は唯心史観であります。近代の経済組織は節約しなければ万一のために困ることが起こる、という人間の恐怖心が原動力となって築かれたと観るのであります。この恐怖心がもとになって富が一部に蓄積され、有無相通ずる流通が完全に行われないために、貧富の懸隔がますます激しくなり、資本家が無資産家を脅かすようになったのであります。だから、この不完全な経済組織を改造するには、何も制度そのものに斧鉞(ふえつ)を加えるにはおよばない。人間の心からこの恐怖心をとり去り、財をわれわれは蓄積しないでも、われわれの生活になくてはならぬものは必ず神が与え給う――換言すれば無尽蔵の大生命から与えらえる――という大信念を人間に与えるようにすればよいので、こうすれば財がある一箇所に片寄って有るという畸形な状態はなくなって、全体の人間に平等に富が循環するようになるというのであります。(『生命の実相』第2巻、p.193~194)
バブル崩壊、リーマンショック、政府(財務省)やマスコミによる「財政破たん」の大宣伝、マスコミによる連日の不景気なニュース・・・、そのようなマイナスの情報を聞かされて、国民は将来に漠たる恐怖心をもち、益々「節約」に励むようになったのではないかと思います。しかし、政府も企業も家計も「節約すればその分だけ自分が富む」と思い誤って、自己利益の保全のために「節約」に励んだものの、それで却って今日の深刻な不景気に陥ってしまいました。
人は節約と言えば美徳のように考え、職工や労働者を解雇するといえば、その雇い主をいかにも没義道(もぎどう)な不徳漢のように思いますが、それは大いに考え方が違っていると思います。節約するということは職工や労働者が労力を出して造ってくれた品物を使わないことにするのでありますから、結局、職工や労働者の力を使わないようにすることであります。そしてまた解雇すると言うことも職工や労働者の力は使わないようにすることでありますから、節約と解雇とは結局同じものを二様にいっているにすぎないのであります。(中略)「物」を節約するのは「人間」の力を利用することを節約するのと同じことであるからであります。
(中略)
信仰心の深い人は「もったいない」ということをよくいわれますが、なんでも買わず使わずに不自由をがまんして窮屈な生活をしている方があります。「生長の家」ではそんな節約ぶりには大反対であります。どんなものでも元は神さまが作ってくださったのだからもったいない――そのところまでは同じでありますが、次は異(ちが)います。わたくしどもでは、つかわないではもったいないからできるだけ生かして使えというのであります。与えられていないものまでを無理をして使うのはいけませんが、与えられているものを生かさない節約は人類の敵であります。われわれが生命力を出して仕事をした。その仕事をだれもつかってくれなくてはその努力が生きて来ません。物を生かして使うということは、人がそれをつくるために注いでくれた生命を生かすと言うことになります。この世は持ちつ持たれつの世の中でありますから、人の注いだ生命を生かすことは自分の生命を生長向上発展さすことになるのであります。だから「生長の家」では買うことを節約せよとはいいません。買うて生かせというのであります。大いに生かすためには大いに買わねばなりません。こうしますと購買力はふえ、製造会社や販売店の収入が増加し、職工も社員も店員もその収入が増加し、したがってますます購買力がふえ、新事業の計画もなんらの危険なく行うことができ、したがってあとからあとから増加する人間の職業にも道が開けてくるのであります。こうなれば就職難も会社のつぶれる心配もないのであります。(中略)しかも、「買う」ということは、単に「寄付」するということよりもいっそうの美徳であります。寄付するということは、働かぬ者にまで、なまけてずるい者にでも与えることになる場合があるのでありますが、「買う」ということは、働きとという尊い生命活動に価(あた)いを支払い、次の生命活動を起こすだけの養いと勇気とを与えることになるので、いっそう尊いのであります。(『生命の実相』第2巻、p.188~190)
谷口雅春先生は唯心論的観点に立って「生命の経済学」を説いておられます。いや、何も谷口雅春先生に限らず、古来日本人は「一切の富の本源は神より来る」と観じてきたものと思います。神様のつくり給ふた世界は本来完全であり、豊かであり、調和しているわけであります。
しかし、ユダヤの貨幣崇拝の影響もあろうかと思いますが、私たち国民は政府やマスコミにマイナスの言葉ばかり聞かされたこともあって、いつの間にか漠たる恐怖心を抱き、「金は使ったらなかなか帰って来るものではない」と思い誤ってお金に執着し、お金を貯めこむようになってしまいました(積む=罪)。すると、その恐怖心の反映としてこの世に不調和、不完全なスガタ、すなわち経済不況が夢幻の如く現れて来たというわけであります。
しかし、この不況は所詮私たちの恐怖心の反映であって、決して不可抗な「デフレ不況」が起こっているわけではありません。換言すれば、私たち国民がちょっと心を転換するだけで、このような不景気など一気に吹き飛ばし、日本を富国強兵の立派な国に再興することは十分可能だということでもあります。
政府やマスコミは徒に恐怖心を煽るような宣伝を広めていますが、そんな根拠のないデマに惑わされてはなりません。別に国家全体の貨幣の総量が減ったわけでも何でもありません。ただ恐怖心に縛られて、循環が悪くなっているだけのことです。
諺に「幽霊の正体見たり枯れ尾花」と言います。経済状況は畢竟私たち国民の心の反映に過ぎません。徒な恐怖心を抱くのをやめて、大いに日本の前途を信じて、使うべきところには躊躇なくお金を使って同胞の働き(生命活動)を生かしつつ、自らの使命に邁進していきたいものだと思います。